2014年1月24日金曜日

選択公理

大学院を修了して数年経った今更ではあるが、最近選択公理について考えていて、なんとなくあまり当たり前ではないなという感じがわかってきたような気がする。

今までは、当たり前では?と思っていてなぜそんなことを公理としてわざわざ宣言する必要があるのかわからなかった。

非常に不勉強であるので、かなりの誤解があればして頂ければありがたいし、逆にもし参考にするなら自己責任で。

例え話としてよく持ちだされるのが、無限個の箱があってその中に物が入っていると。そのそれぞれから一つずつ取り出してそれを一つの集合とできますよ、というもの。

これは、そのへんのソースで調べればたくさんでてくるので詳細は省略。

個人的にはこれが当たり前だと思っていた。

しかし、無限個の箱の部分を非可算無限にするとあまり当たり前ではないような気がしてきた。

ここからいきなり数学の記号を用いてしまうが、例えば
A=R(実数)、B={0,1} として写像f:A→B(全射)を考えてみる。このときfとしては具体的に表記できる対応はないとしてみる。つまり対応はあるが、適当に対応させている。


もちろん、R=f^{-1}(0) \cup f^{-1}(1) ではある。

しかし、選択関数というのが定義するのが難しい気がする。

f(x)= ・・・の形で陽に書こうとすると、部分集合ごとに対応を与えているわけではないので、A=Rの各要素ごとに0なのか1なのか指定していかなければならないが、指定するという行為自体が離散的試行(可算無限)なので、いつまで経っても選択関数を陽に決定することができない。


こういう例を考えてみると選択公理を考える動機もわかってくるような気がする。

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