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2014年7月10日木曜日

『トランセンデンス』

『トランセンデンス』を見てきました。

台風も近付いていて、明らかにいつ天気が崩れてもおかしくない空だし、平日でもあるので空いているだろうと思い映画館に行きました。

しかし、想像していたよりもガラガラ!前に行った時も映画館自体は混んでいたけど、『トランセンデンス』の上映だけは空席ありの状況だったし、あまり人気ないのかしら。

人工知能や技術的特異点扱った作品で、興味ない人は興味ないテーマだし、宣伝もそんなにやっていなかったから、こんなもんかしら。





ネタバレしない範囲で感想を。

人工知能を扱った話ではあるけれど、ナノテクの話も少し出てくる。

レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』で書いていたようないわゆるGNR
(gene nano robot)のNとRの話がでてくる。いやもしかしたら見逃していただけで、Rの話もでてきていたのか?

そういう話を知らなくても、科学技術に興味がある人なら興味を持って見れると思う。

人工知能や情報世界、テクノロジーを扱った作品では、マトリックスシリーズ、ターミネーターシリーズ、あとは『サマーウォーズ』とかが個人的にはすぐに思いつく。
もちろん他にもあると思うけど。

そういうのとはまた違った扱いで興味深いです。

2014年5月3日土曜日

『おおかみこどもの雨と雪』

先日、『おおかみこどもの雨と雪』をみました。

すごいいいお話でした。

今回みてみて初めて知ったのですが、話は、タイトルにもあるおおかみこどもの雪ちゃんが、親のどうやって育てられたかを語っていくという形式で進んでいくんですね。

しかも、母と父のなれそめのくだりは、かなり前半の方だけでまとまっているんですね。このあたり、とくにセリフもなくBGMと映像だけで進んでいくので、テンポがよくてよかったです。

その他、考えたことを書いてみようと思う。

おおかみと人間の両面性

母親である花は、雪と雨がおおかみこどもであることから、都会での生活に限界を感じ、田舎へ引っ越そうと考え始めます。

そんなとき、ふと、狼と人間どちらで生きていくか、こどもたちにたずねています。多分、その場では特に返事を期待して質問をしたわけではないと思いますが。

今回の場合は、狼と人間だったので、どちらか選ぶ必要があったような気もしますが、これが狼と人間ではない場合はどうでしょうか。例えば職業とか肩書きなどです。

自分は現在フリーターなので、大したことは言えないのですが、いろいろなビジネスの記事などをみていると、現代ではなにか職業や肩書によって枠でくくってしまうことがなにかリスクを伴っているというような話も目にします。

例えば、エンジニア兼デザイナー兼研究者とか。プログラマ兼プロジェクトマネージャ兼コンサルタントとか。自分はエンジニア方面に興味があるので、例が偏ってしまいましたが、その他例をあげるとするなら、例えば政治家兼弁護士とかいますよね。医者兼作家とか。医者にしたって、複数の専門をかけもちしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

自分の尊敬している石井裕先生はこんなこともいっています。

今回は狼と人間だったので、両立というのは難しいので、どちらかを選ぶ必要がありました。いや、もしかしたら両立していく方法もあったのかもしれませんが、わかりません。

なぜ、難しいかといったら、人間界の側で狼と共に生活していくという常識がないし、狼人間なんていう存在がいることすら知らないからです。そんな状態のところに、ただの狼が入るだけでも混乱するのに、狼人間なんて入っていけるはずがありません。

今書いたように、共生ができないのは受け入れる側に、準備ができていないからです。心の準備ですね。

そういう意味では、もし自分がなにかを受け入れる側になったときに、なにか自分の中にない観念などを受け入れるときにも、安易に拒絶するのはよくないかなと戒めにも感じました。

不安や弱さについて

最終的には兄妹それぞれ別の道を歩むことになります。姉の雪は人間として、弟の雨は狼として。

幼い頃の様子が、雪は虫や獣を恐れずとても活発で、雨はその逆だったので、意外な結果。

小学校にあがってから、雨は授業も上の空で、徐々に学校へ行かなくなります。そのかわり山へ入り、狼と共に行動しいろいろ学び始めます。

学校に初めて登校するシーンにしろ、授業が上の空であることにしろ、初めから学校に興味がなかったような気がします。

なんで興味がなかったんんだろうか、と考えてみると、それは不安だったからではないかと思います。

先ほど書いたように、雨は、雪とは対照的に虫や獣などは苦手としていたし活動的ではありませんでした。

そういう意味で、「自分は人間であると同時に狼でもあるのに、どうしてこうなんだろう」と不安を抱えていたのではないかと思います。それは狼という側面としての自分が居場所を上手く獲得できないことへの不安です。狼としての自分という一つの側面ではありますが、どうやって生きていくかという死活問題だったから、学校の授業には興味がなかったのだと思います。

では雪は不安はなかったのでしょうか。

雪は学校で、転校生から、なんとなく他の人と様子が違う、と言われてしまいます。それから、転校生をなんとなく避け始めるのですが、ある日追いつめられた拍子に一瞬狼となって、転校生を怪我させてしまいます。

ここで、親が呼び出しをされます。帰り際、今まで親から狼の姿を出さないためのおまじない(魔法ではなく、自己暗示みたいなもの)を教えてもらって、狼の姿を出さないようにしてきたのに、そのおまじないが効かなかったと泣いてしまいます。

このシーン結構重要だと思うのですよ。

雪は雪で不安を抱えていたのだと思います。

なぜ泣いてしまったのかというと、今まで人間の世界で居場所を獲得しようと努力してきたのに、狼の姿を見られてしまったことと、相手に怪我をさせてしまったことで、居場所がなくなるのではないかと不安になったからではないでしょうか。

雪は幼いころは非常に活発だったわけですが、では雪は狼としての不安は克服し、次の段階として人間の世界での不安に向き合っていたのでしょうか。

それとも狼と人間のステージの違いという問題ではなく、雪と雨のそれぞれの志向の問題でしょうか。

そのあたりはよくわかりません。

その他

その他に印象に残っているシーンがあります。

まず、雨が「先生」と呼ぶ狼が、もうすぐ死んでしまうから、自分が代わりにならなければならないといったとき。母の花が「雨はまだ10歳で、狼でいったら一人前かもしれないけど、人間だと。。。」と言葉が淀んだシーン。

花は狼としても人間としてもどちらの選択肢も尊重して育ててきたつもりではいたのでしょう。でも、言葉が淀んだ瞬間に、無意識に人間を中心にして扱っている自分に気づいて言葉を継げなくなったのでしょう。

これもなかなか耳の痛い話で、どの選択肢も尊重してはいるつもりでも、無意識にどれか一つの選択肢、あるいは視点で相手を枠に嵌めてしまっていることも結構あるような気がします。気をつけなければいけないなと思いました。

次に、大雨がきて、学校に生徒それぞれの親が迎えにきて下校するシーン。

花も家から迎えに行こうとするのだが、一方で家にいた雨は山のことを心配して、山に向かってしまう。そこで、雪を迎えにいくのではなく、雨を追って山のなかにはいっていきます。

これは、雪も迎えに行かなくてはいけないのだけれど、雪は待っている人なので、どこかへ行ってしまう心配はない。しかし一方で、雨はこのまま二度と会えないような気がしたから、雨を追うことにしたのでしょう。

次に、学校にて、学校の先生が全員帰宅したか見回りに来たシーン。

転校生草平と雪は教室の机の下に隠れるのですが、見回りが去ったあとに、雪の「なんで隠れたの?」という質問に対し、返事はしない。

これはなんで隠れたんだろうか。そしてなぜ返事をしなかったのだろうか。雪と一緒にいたかったから?

そして雪の「狼であることの告白」。それに対し、「最初から知っていた」と草平。

なんだろう。こういう決定的な秘密だとか、あるいはコンプレックスを抱えていても、それを含めて受け入れる、受け入れてくれるっていう関係は憧れるな。こういうシーンは泣ける。

2014年4月29日火曜日

『PINA/ピナ・バウシュ踊り続けるいのち』

ゴールデンウィークということもあり、以前から気になってはいたものの、なかなか見る機会のない映画作品をみてみた。


以前なにかのDVDをみたときに予告編で紹介されていて、ずっとみたいと思っていた。

ピナ・バウシュという人は初めて聞いたのだが、有名な人らしい。

実際にDVDをみてみると、それもうなづける。すごすぎる。


構成としては、ピナ・バウシェやそのお弟子さん達のダンスの映像がメインで、練習風景やインタビューなどが合間合間に主張しすぎずに入ってくる。


wikiなどで調べたりたり、実際に見てみてもわかるけど、ダンスと演劇が融合したような作品。

結構いろんな演技の映像がたくさんあるので、一つ一つの演技に対して感じたことは書きませんが、すごかったです。



正直、ダンス(に限らず、身体芸術全般ですが)というものがよくわからずにいる。

動き自体は、複雑でハードなものから、シンプルで簡単なものまであるにも関わらず、ただ体を動かすだけで、なぜそれが芸術的に感じるのか。

とくに、POPSなんかの振り付けをみているとそう思っていた。


この映画をみてみると、美しさにみいってしまい、(いい意味で)身体芸術ってなんだろうと余計にわからなくなりました。


演技の印象も、多分なにかのメタファーやメッセージが込められているのでしょうが、一度見ただけでは意味不明。

いうならば、斬新であるとか狂っているという感じ(褒め言葉です)


でも、意味はわからずとも、美しいと感じなんども見入ってしまいます。


ダンスに限らず、こういう一見意味不明、狂っているけども、深い意味があったり、純粋に美しいというような作品は好きです。

2014年4月19日土曜日

『11人目のストライカー』

世間では、今日から『劇場版名探偵コナン 異次元のスナイパー』が公開となったようだが、自分は家でコナンのDVDをみていた。

公開初日に加え、休日なので映画館は混んでいるだろうから、出向きたくなかったのだ。
 
というかそれ以前に、最近は映画館で見るということ自体があまりない。もっぱらDVDでの観賞をしている。。



今日見たのは『11人目のストライカー』。

今まで見たのとは、話の進め方が違う感じで新鮮だった。(監督が変わったりしたのかしら、調べてない。)

ストーリーとしてもうまくまとまっていたような気がしたし、犯人になりえそうな容疑者が何人もいて、本当に最後の最後まで、犯人がわからず謎解きとしても十分に楽しめた。

それに、サッカーものとあってコナンが素でサッカー少年に戻っていて、楽しかった。

それにしてもゲスト出演が多い!サッカー選手の出演はもとより、ミヤネ屋までそのままの名前で登場している。これにはふいたww

2014年4月13日日曜日

『銀翼の奇術師』

さて、今日は『名探偵コナン劇場版 銀翼の奇術師』をみた。

これも以前一度みたことがあったが、最後の航空パニックのシーンしか印象がなかったので、改めてみてみた。


ストーリーとしては3つのパートに分かれている。

怪盗キッドが宝石を盗むという挑戦状をよこしてくる。

それを舞台の本番で実行されるとにらみ待ち構えるが、キッド自身は現れるが、盗みは行われないし、キッドも捕まえ損ねるというところまでが第一段。


その後話は、舞台本番の打ち上げの話に移る。

打ち上げで函館に行くための飛行機の中で、殺人が起こる。

この殺人事件自体はキッドとは関係なく、内輪もめ。


凶器は化粧品に混ぜた毒。

じわじわと毒が肌に浸透してはいたのだが、化粧品がついた指で、チョコレートを食べたのが、決定的にきき死亡する。

そこまでが第二段。


第三段は、殺された人と機長副機長が知り合いだったので、殺される前に、コックピットに挨拶をしにいっていた。

そのとき挨拶として、手にキスをしていたのだが、そこから微量ながら毒をくらってしまい、機長副機長がともに昏睡状態となる。

それを不時着させようとするも、雷が落ちたり、風にあおられたり、エンジンが脱落したりと、いろいろ起こる。

その中で何とか不時着をさせて、エンディング。



改めてみてみたけど、印象に残ってない理由がなんとなくわかった気がする。

話の焦点がどこにあるのかいまいちわからないからだ。

最初は宝石を盗もうとしていた話だったのに、途中から関係ない内輪もめになり、最後は航空パニック。

宝石の話は最後のほうでチラッと触れられるだけ。



でも話の本題以外の部分の掛け合いは、やっぱりたまらないですね。

コナン(新一)はなんであんな法律や航空機の構造も知ってるんだよ笑)

っていうかバレるだろ笑)

それがまたおもしろい。


あと一番最初、屋上でキッドと対峙したシーンのこと。

コナンの方が先に、屋上から足を滑らせて落ちるふりをして、先に仕掛けたけど、あれはある意味キッドのことを知っているからこそできたのかなと思う。

もちろんパラシュートはもっていたからできたわけだけど、落ちればキッドは必ず助けにくるだろうという確信があったのだと思う。

そういう意味では、キッドのことを完全な悪とはみなしていないのではないかと思う。

2014年4月5日土曜日

『ベイカーストリートの亡霊』

今日は『名探偵コナン劇場版 ベイカーストリートの亡霊』DVDでみました。


以前に一回みたことがあるような気もするけれど、よく覚えていなかったのでもう一度ということで。



話は、本編主要部の始まる2年前から始まります。

天才少年ヒロキがアメリカで人工知能「Noar's ark」を完成させ、電話回線を通じて外へ逃がすと同時に、ベランダから飛び降り自殺をします。

その人工知能は、ヒロキ君の分身ともいえるもので、ヒロキくんの意思や考えを模倣しています。



2年後、「Noar's ark」の開発に資金提供していた会社が、ゲーム会社に資金提供をして開発した「仮想現実ゲーム」の披露会が行われます。


その披露会で、「Noar's ark」がゲームをハッキングします。

各界から、著名人の2世3世が来場しており、ゲームを体験しているのですが、その子供達を人質に取り始めます。

50人の子供達が仮想現実の世界に入っているのですが、全員がゲームをクリアできないと、脳に特殊な電流を流し、脳を破壊する。

一人でもクリアできたら、脱落していた人含め全員を解放するなどいう条件を告げてきます。


一方で、現実の世界では、ゲームの開発者が殺されてしまうとう事件も発生。




ゲームが始まる直前に、コナンはダイイングメッセージから、ゲームの中にヒントがあると気付き、ゲームに参加します。


ゲームの中ではコナンが奮闘、現実世界では工藤勇作が探偵役で活躍という二重の構成になっていました。




多分、なんであまり内容を覚えていなかったのか、今考えてみると、細かい箇所が気になったりしてスッキリしていなかったからだと思う。

人工知能が意志を引き継ぐっていうことの意味がわからなかったり、電話回線に逃がすってどういう意味かなとか思ったり、人工知能にハッキングされるってどういうこととか思ったり。

人工知能を電話回線に逃がしたとか言ってたけど、ゲームは何らかの方法でネットワーク接続されているということか?それならなんとなくわかるけど。

それともゲームの開発に「Noar's ark」が使われているということか?それが、隠しコマンドみたいのが発動されて暴走してハッキングされたというならわかるが、そもそもNoar's arkは逃がされていたのではないの?



とかそういう本筋に関係ないことばかり気になってしまっていたのだと思います。


アクションシーンは少なめで、謎解きがメインでこれはこれで見ごたえありました。


ゲームが始まる前に反発し合っていた、嫌みな子供達数人と行動を共にするのですが、ゲームを進めていくうちに、打ち解けていくのがとてもよかったです。


あと、シャーロックホームズシリーズの知識の話がでてくるのですが、シャーロックホームズシリーズについて詳しければ詳しいほどよりこの映画を楽しめると思います。


コナン達がゲームを進めるのは、切り裂きジャックがいたロンドンなのですが、そこにシャーロックホームズの小説の世界が混じった世界です。

昔、シャーロックホームズを読んだこともなかったときにこの映画をみたときはどこからどこまでが、現実の世界の話で、どこからが小説の話なのか区別できず、それもこの映画がよくわからないなと思っていた原因だと思います。


でも今改めて見てみるととても面白い映画でした。

2014年3月30日日曜日

『カイジ2』

週末には、DVDで映画もみた。


今回みたのは『カイジ2』


前作は見たことがあり、続編も気になっていたが、やっと見れた。


こっちの方が好きかも。


話がまとまっている気がする。


「沼」というイカサマパチンコ台をどう攻略するかというストーリー。


いわゆるパチンコ台のハッキングをする過程を描いていて、それ自体個人的に好きだし、それに加え、みんなの力を合わせる姿とか、結集していく姿を描いているような姿も好き。



しびれたポイントをいくつかあげるなら、3択から選んでボタンを押す場面で、利根川が予め張っておいた伏線でヒントを与えたところ。


それと、最後のパチンコ台での最終決戦が泣けた。

2014年3月22日土曜日

『天国へのカウントダウン』

昨日に引き続き、もう一本映画をみました!

こんなに天気のいいのに、外出もせずDVDをみている自分って。。。

タイトルにもある通り、名探偵コナンシリーズの『天国へのカウントダウン』を見ました。

以前一人暮らしをしていたころに、シリーズ後半の作品はまとめてみたのですが、『天国へのカウントダウン』とかその前後の作品はみていませんでした。

ずいぶん昔に映画館でみたような記憶もあるのですが、最後に車でプールに飛び込むぐらいしか覚えておらず、それ以外どんな話だったか覚えてないので改めて見てみました。

最後に車でプールに飛び込むというシーンは覚えていたのですが、なんでそういう経緯になったのか忘れてしまってもやもやとしていたのですが、スッキリしました!

そして、最後のカウントダウンのシーンはしびれました。

車で隣のビルへ飛び移る提案をするコナン、冷静に計算して可能かどうか分析する灰原、そしてそれを想定済みの上で提案をしているコナン。

このあたりも好き。

ストーリとしては、日本画家の先生の殺人計画と黒づくめの男たちの殺人が偶然にも絡んでしまったという話。

日本画家の先生は先生で殺人の計画を立てていて、殺そうとしていた人を予期せず先に黒づくめの男たちに先に殺されてしまい、それをうまく利用して連続殺人にみせかけ、一方で自分にはアリバイをつくり自分を容疑者から外す。

爆発関係は黒づくめの男たちの仕業。

黒づくめの男たちが殺したプログラマーの男が持ち出した極秘情報をPCごと破壊するため、それと灰原がツインタワーにくることをたまたま知ったので、ついでに爆発で始末するため。

その爆発のせいで、いろいろ退路を経たれ奮闘するという話で面白かったです。

『天国へのカウントダウン』の他に、古い作品だと『ベイカーストリートの亡霊』と『銀翼の魔術師』が微妙に覚えてないので、今度みようっと♪

『インシテミル』

久しぶりに映画をみた。といっても映画館ではなく、DVDで。

何年も前の映画を含め、気になっている映画は何本もあったので、その中の一本『インシテミル』をみた。




公開していたときは、それなりに話題になっていたような気もするし、自分のまわりの友人も何人か面白いと言っていたような気もする。

しかし、個人的には・・・微妙だった。


心理実験のバイトを行ったのだが、結局最後まで、実験の目的がわからず。

起承転結の起伏もあまりなく、全体としてどうもメリハリがないように感じた。

閉鎖空間の中に10人が7日間閉じ込められ、その間に色々事件(殺人事件)が起こる。

その事件に対し、探偵役を決め、犯人を多数決で決めていくという設定だったはずなのに、途中からルールはどこへいったのやら。




ただ、演出については考えながらみた。

物語は車で心理実験の会場に向かっているところから始まる。

特に説明もなく、少し進んだところから始まるのだが、そういう構成の仕方も定石の一つでよくあるパターンだ。

ちょっとストックとしておこうと思う。


続いて、車中で登場人物について、行動の描写を一人一人カメラワークで映していく。

あえてセリフでの説明はないので、想像力をかきたてられる。これも演出か。



実験の会場に入ってからの場面では、テーブルの上から登場人物を映しているシーンがある。

これもなにか独特の効果をもたらすカメラワークなのではないかと思う。

多分、監視をしている感じを出す効果ではないか。



起承転結という点から言えば、一人目の死亡からが承、二人同時に死亡し、携帯電話で映像が配信されているシーンの部分から転だと思うがどうだろう。


一人目の死亡の時点で、多数決をとる際に、綾瀬はるかが演じている役が反対に票をいれれば4対4でドローになる場面がある。

そこで、綾瀬はるかは棄権をするのだが、なぜドローにするのか、その時点では疑問だった。

映画をすべて観終わってから、考えてみたらわかった。

綾瀬はるかは、実は主催者側の人間なので、あそこで反対に一票いれドローにしてしまうよりは、棄権をして誰かを投獄したほうが面白くなるだろうから棄権をしたのだろう。

そして、また展開を動かすために、投獄された人を解放するのも綾瀬はるかなのだが。



偶然性とはなんだろうか。

この映画に限らず、物語というのはどのように進むのかいつも気になっている。

よく、偶然の出来事を用いて、展開をさせるのはあまりよろしくないとはいうが、偶然性とはどういうものなのだろうか。

例えばこの映画で例を出すならば、

(一人目が死亡する前のかなり前半の方で)

お酒があることを発見するシーン。

ミステリー小説があることを発見するシーン。

(消灯後初めて部屋にいった際)

隠しカメラを発見するシーン。

凶器を発見するシーン。


読んでいた小説が下巻に続くとなってしまうシーン。
(その後下巻をとりにいくため、消灯後に部屋をでて殺されてしまう。)

ガードの巡回周期についての提案。



これらは偶然性とはいうのだろうか。


2014年1月17日金曜日

印象に残っている映画

昨日は眠すぎて、ブログを更新せずに寝てしまった。

あまりにもネタがなかったので、映画について書こうと思う。

何十回も、というほど見たわけではないが、何回か見た映画に「ベストキッド」、「魔女の宅急便」と「耳をすませば」がある。ジブリ系でいえば「天空の城ラピュラ」も何回もみたが、進んでみたわけではなくこれはテレビで放送されていればみたという程度。

「ベストキッド」については、オリジナル版とリメイク版があり、オリジナル版はたしか4まである。
自分は、ジャッキーチェンが主演のリメイク版を最初にみて、オリジナル版はまだ3までしかみていない。

個人的な感想としてはリメイク版のほうがメリハリが効いていて好きだ。ドレの屈辱、少林寺拳法の習得の地道さと鮮やかな側面などがオリジナル版より強調されていて、泣けてしまう。

オリジナル版は4まであるが、リメイク版は2以降は制作されないのではないかと思う。公式な発表はされていない気がするが、リメイク版の公開から時間は経っているのに、噂も聞かない。是非2も制作してほしいのだが。

これを何度も見てしまうのは、典型的なサクセスストーリーだからだと思う。ドレはハンさん(ジャッキーチェン)の下で修業するわけだが、ハンさんから与えられる課題の意味を初めは理解できない。しかし、ひたすら繰り返し繰り返し、身に刻まれていくうちに、本人も意識しないうちに体が無意識に反応できる次元まで到達している。そして最終的には、武術大会でライバルを破り優勝するという形で修業の成果が花開く。

その究極系が、映画の中でいえば師匠のハンさんにあたり、前半で4人の少年を相手に戦うが、かなりの離れ技でも自然の流れとしてやってのける。
熟達すれば、傍からみると離れ技でも本人にしてみればなんなくできるようになるといった幻想を抱かせてくれる。

割と自分の価値観はこういった映画に近いと思う。



「魔女の宅急便」は以前も書いたので省略。知らない土地で、最初は異邦人だがその土地の人ととのコミュニケーションの中で自分の存在価値を見出していく、再認識していく、そのことに共感を覚える。映画では土地だったが、これは組織などにでも同じだろう。



「耳をすませば」は、恋愛の側面に魅かれる人もいるのであろうが、自分は進路に悩んでいる若者の描写というのが、共感を覚える。

自分はもう若者というほど若くはないので、自分の可能性を見つけるというよりかは自分の決めた道で進んでいくという立ち位置にいるが、自分の道を決めて精進しているせいじ君と、進路に悩んでいるしずく、普通であるしずくに共感し、なにか発見しようとするその姿勢に引き込まれ、そしてせいじくんとの対比でいろんな人がいるんだということで、みていて自分を納得させられる。


何回も見た、これから見る機会があるだろうという映画ではこんなところが印象に残っている。

2014年1月14日火曜日

閉鎖空間・隔離空間の魅力

今日はあまり勉強がはかどらなかった。TOEFLも近いのに。
いろいろ無駄な行動が多かったな。それに、集中力が続いた時間が短かった。その原因はだいたい推測できるけど。反省反省。



さて、今日は昨日の続き。予告編で気になった映画がもう一つあるという話。

「奴隷区 僕と23人の奴隷」という映画だ。







タイトルから想像する限りではあるが、どこか閉鎖空間を舞台にした話なのだと思う。

このような閉鎖空間であるとか、隔離空間を舞台にした話は興味がある。

自分なりにそういったカテゴリーに分類される話としては、ドラマなども含めると例えば「僕らの勇気-未満都市-」「バトルロワイヤル」「ファニーゲーム」「es」「20世紀少年」などがある。忘れてるだけで他にもあるかも。

少しいくつか補足を加えさせてもらうと、「僕らの勇気-未満都市」昔やっていたkinki-kidsが出ていたドラマであるが、残念ながらDVDは出ていないらしい。TSUTAYAで探してみたが、ビデオのみの模様。

また、「20世紀少年」というのは、物理的な空間あるいは領域といった意味では閉鎖的でも隔離的でもない。しかし、正義と悪が混同されている世界で、通常の意味での正義の側の人間からすれば精神的には追いつめられて閉鎖的な状況ではあると思う。それにさらに絶望感も加わっているのだが。

最後、「ファニーゲーム」というのはミヒャエル・ハネケ監督の作品だが、この監督の作品として「ピアニスト」「白いリボン」をみたが、それだけ観ただけでも、頭イカれてる監督だというのがわかる。最大限の褒め言葉である。他の作品もいづれ見たい。


さて話をもとに戻すと、これらに興味があるのは、いわゆるスプラッタ映画やホラー映画とは違い、ある種リアリティを持っており、その中で人間の本性、例えば残酷さや理不尽さをあぶり出しているからだと思う。

スプラッター映画はあれはあれで刺激的ではあるが、リアリティはあまり感じない。ホラー映画も同様である。観ていて引き込まれるものはあるが、リアリティがあるかというとそれはまた別問題である。

一方で、閉鎖空間あるいは隔離空間が舞台というのは、それらよりかはリアリティがあるように思う。

もし、閉鎖空間や隔離空間でなにか本当におぞましい事が起こっていた、あるいは起きているとしようではないか。しかし、そんなものはあったとしても、極秘にされていて自分達は事実を知ることができない。

また、舞台設定としてはかなり特殊ではあるが、描かれていること自体は極限状態での人間に心理である。極限状態における心の動きをみることによって、自分の中に普段は意識してはいないがあるかもしれない残酷さや理不尽さを投影するからこそ魅かれるのかもしれない。


本当にこんなことがあったら恐ろしいけどありえなくはないという微妙なリアリティ、それと極限状態で描かれる心理が自分たちの深層心理の投影、この二つがあるからなんとなく観たくなってしまうのではなかろうか。


2014年1月13日月曜日

「魔女の宅急便」に想うもの

前回は、トリックを観てきたことについて記事を書いたが、予告編で宣伝されていた中にも、気になるものがあったので触れようと思う。

二つあって、一つは「魔女の宅急便」。実写化されるらしい。




「魔女の宅急便」は好きで、おそらく10回以上は観ている気がする。好きだからこそ、あえて実写化しないでほしかった。
そういう意味で非常にショックである。夢を壊さないでほしい。なんでもかんでも実写化すればよいというものでもないと思う。


さて、今回はなぜ「魔女の宅急便」が好きなのかということだ。

自分が共感するのは、全く知らない町で生活をし、最初は異邦人であったが、その土地の人とのコミュニケーションの中で徐々に信頼を築き、居場所を獲得していく、という過程を描いているところである。

それは単に歓迎されているということとは違うと思う。歓迎をする、ということはそれはある意味で外部の人間だと認識をしていることになる。そうではなくて、歓迎はもちろんしているのだが、いろんな感情を含めてそこにいるのが当たり前、自然な状態になっているというのが、居場所を獲得したということである。

もう少し言葉を変えてみれば、歓迎されている、というのはある意味ではいなくてもルーチンを回すには問題ではないということではないだろうか。
居場所を獲得するというのは、他人との関係が形成されるということだと思う。


上記のような、テリトリーの獲得の描写がなぜ好きなのかというのはあまり考えたことがなかった。

この記事を書くにあたり考えてみた。

一度外部に出て、評価が全くのゼロの状態から、自分の居場所を獲得していくなかで自分の存在価値を再認識できるからではないだろうか。

その土地の人と関係が築かれて、さらにその土地の土地勘なども獲得し、自分自身でもそこにいることが当たり前だと感じられるようになってくると安心するのである。





もう一つ気になった作品というのは「奴隷区 僕と23人の奴隷」であるが、それは次回。