2014年1月27日月曜日

ストレス耐性

新しい職場へきてから、2週間目が始まった。

新しい環境になるときはいつものことだが、ストレスがかかる。

慣れてきてからの不満やフラストレーションではなく、知らず知らずに感じているストレスである。

まず、周りがまだ知らない人ばかり。今回の入社が一人だったので、研修が一対一で行われている。そして研修担当の女性の人が少し怖い。

そして、銀行でのテクニカルサポートなので、PC関連の事で覚えることが多い。そしてお金を扱う仕事なので、細かいことまで正確に覚えないといけないから大変だ。

覚える事が多すぎて、しかもなかなか覚えられない自分にストレスを若干ストレスを感じる。

朝も今までより早いので、それもまだ慣れないので起きるのがつらい。

とりあえず、先のことを考えると挫折しそうなので、日々その日一日を考えてなんとか乗り切っている。

慣れて軌道に乗ってくれば、ストレスも感じないのだろうが、今は毎日辞めたい辞めたいとか、前の職場を辞めてしまったことを若干後悔したりもしている。

前の職場では、若干不満はあったものの、辞めることを惜しまれたりもしたし、今思えばそれなりに居心地が良かった気もする。

多分まだ新しい職場に慣れていないからそう思うだけだと思うが。




こういうストレスにどのくらい対応できるのかというのをストレス耐性というらしい。どこかで聞いたことがある。

慣れない環境で感じるストレスにどのくらい耐えられるか、威圧的な相手にどのくらい耐えられるかなど。あるいは、どうやってストレスを緩和するかまで方法論まで持っているとなお良いらしい。

昔は新しい環境になる度に、慣れ不慣れの問題ではなく、自分がその環境に合っていないんだということで、すぐ辞めることばかり考えていたが、(実際には辞めていないが、その理由は辞める癖がついてしまうのが怖かったから)、今は辞めたいなとは思うけど、単に慣れの問題ということで割りきる事ができるようになってきた。

あるいは長いスパンの継続を考えると心が折れてしまうので、毎日その日一日を乗り越えるということで頑張っている。



そういうことなども踏まえて考えてみると、本質的にストレスに強いのかどうかはわからないが、ストレスに耐える忍耐力などはそれなりに持っているのではないかという気もしてくる。

2014年1月26日日曜日

PC環境の整理は時間がかかる。。。

今日は、一日中パソコン周りの整理などをしていた。

ソフトのインストールなどは非常面倒だ。

午前中は写真の整理をしていた。昨日デジカメで撮影した画像をPCのi-tuneのフォルダに取り込んだはずなのだが、うまくスマホと共有がされていなかったので、それを共有しようとしていた。

とりあえず、i-phoneを同期しようと思ってPCに接続したはいいが、うまくi-tuneが起動しない。何度やり直したが上手くいかないので、i-tuneをアンインストールをしてみた。

ところが、もう一度最新版をインストールしようとするとエラーになる。せっかくだし、ということでエラーメッセージの意味などもGoogleで調べつつなんとかインストールができた。

自分が知らなかっただけかもしらないが、i-cloudとchromeの連携ができるようになっていたのが感動した。これももちろんインストール。


その後は写真などをネットのコミュニティに投稿したり、ブックマークの整理などもしてみた。

さらに、近いうちにやろうと思っていたMySQLのインストールも行った。

本当は、C++の統合開発環境(IDE)のインストールもしようと思っていたのだが、こんな時間。

インストールやアンインストール、エラーの解消などのテコ入れをしようと思うと、それなりに時間がかかってしまう。

普段はなかなかできないので、一日かけて整理できたのでそれなりに充実はしていた一日だった。PCの前に座っていただけだが。

2014年1月25日土曜日

初詣

今日は、少し時期が遅くなったが湯島天神まで行ってきた。

今年は大学院へ進学することも予定しているので、大学院へ無事進学できるために(学力面というより、それ以外の諸事情の面で)、また進学後も上手くやっていけるように、ということだ。

当初は、そこから不忍池を通り上野へ行き、美術館も巡る予定であった。

しかし家を出た時間がお昼頃で少し遅めだったことまであり、上野まで行ったところで美術館は閉まってしまっていたので入ることはできなかった。

湯島天神では、お正月程ではないにせよ、露店なども出ていてそれなりに賑わっていた。





今日初めて気付いたが、湯島天神に泉鏡花の筆塚があった。

筆塚というのがそもそも何なのか知らないし、なぜ泉鏡花と湯島天神が関わるのかわからなかったので、これは少し調べてみようと思う。

少し調べた感じでは小説の舞台と関係があるようだ。

泉鏡花は大学時代に「外科室」を読んであまりよくわからない、という意味で逆に印象に残っている。




そこから不忍池へ行った。

不忍池では、現在「蓮の観賞デッキ」の工事をしていた。

2月下旬完成予定ということで、だいぶ完成形は見えていた。




さらに、上野公園へ歩を進める。

美術館へ行く予定だったが、上野公園についたのが17:00頃で間もなく閉館してしまうとのことで、今日は諦めた。

ぼたん苑というものもあったがこちらも16:30で閉まっていたので見る事ができなかった。また今度行こう。




今日は写真を撮りながらゆっくり散歩していた。普段なら通り過ぎてしまうような箇所も、ネタを探すためにこまめに足をのばしてみた。



普段気にしないところをまで確認すると、意外な出会いがあったりして楽しかった。



最後にもう一つ。

湯島~上野周辺で「うそ替え神事」という言葉を目にした。

一体これはなんなのだろうか。複数の場所で目にするというのもいまいちわからない。

これも調べてみよう。

2014年1月24日金曜日

一週間の終わり。

一週間が終わった。

今週火曜日から新しい仕事をはじめ、今週四日間は一日中研修。

朝も、30分ではあるが今までより早く出なくてはいけない。朝の30分は大きい。

新しい環境でまだ慣れないことに加え、朝も早い。今週は疲れた。週末でリフレッシュして来週からまた頑張ろう。



最近、といってもここ3、4カ月程の間であるが、今更ながら生活のリズムというものを身に付けた。

毎日一定の時間に就寝し、7時間程睡眠をとり、7時に起きるといった感じだ。今は30分早いので6時間半の睡眠だが。

唐突にいきなりこのリズムにしたわけではない。生活をしてる中で、ふとこのようなリズムで生活をしていることに気付き、一日のサイクルが自然に進んでいることに気付いた。

以前から、リズミカルな生活をしてみたいと思っていたので、これを機に一定のリズムになるように意識し始めた。

今までは、就寝時間も起床時間も一定ではなく、休みの日などはダラダラと寝ているような生活だったので、自分に必要な睡眠時間もよくわかっていなかった。

一定の生活をしている中で自分には、(現段階では)7時間の睡眠が必要だということがわかった。

周りと比較して少しロングスリーパーのような気もしているが、下手に睡眠時間を削って日中のパフォーマンスが落ちるよりはマシだと思っているし、また多かれ少なかれ睡眠はとらなくてはいけないので、睡眠も仕事のうちと考えて、それを逆手にとりなるべく利用するように心がけるようになった。


一定のサイクルの生活を送っていると、目覚ましをかけなくても自然に目が覚めるようになる。

より確実にリズムを刻めるようになったら、徐々に睡眠時間を減らしていきたいとは思っている。

一気にやるのは無理なので(少なくとも自分の場合は)、地道に体を適応させていこうと長期的視点で考えている。

選択公理

大学院を修了して数年経った今更ではあるが、最近選択公理について考えていて、なんとなくあまり当たり前ではないなという感じがわかってきたような気がする。

今までは、当たり前では?と思っていてなぜそんなことを公理としてわざわざ宣言する必要があるのかわからなかった。

非常に不勉強であるので、かなりの誤解があればして頂ければありがたいし、逆にもし参考にするなら自己責任で。

例え話としてよく持ちだされるのが、無限個の箱があってその中に物が入っていると。そのそれぞれから一つずつ取り出してそれを一つの集合とできますよ、というもの。

これは、そのへんのソースで調べればたくさんでてくるので詳細は省略。

個人的にはこれが当たり前だと思っていた。

しかし、無限個の箱の部分を非可算無限にするとあまり当たり前ではないような気がしてきた。

ここからいきなり数学の記号を用いてしまうが、例えば
A=R(実数)、B={0,1} として写像f:A→B(全射)を考えてみる。このときfとしては具体的に表記できる対応はないとしてみる。つまり対応はあるが、適当に対応させている。


もちろん、R=f^{-1}(0) \cup f^{-1}(1) ではある。

しかし、選択関数というのが定義するのが難しい気がする。

f(x)= ・・・の形で陽に書こうとすると、部分集合ごとに対応を与えているわけではないので、A=Rの各要素ごとに0なのか1なのか指定していかなければならないが、指定するという行為自体が離散的試行(可算無限)なので、いつまで経っても選択関数を陽に決定することができない。


こういう例を考えてみると選択公理を考える動機もわかってくるような気がする。

2014年1月22日水曜日

自己評価の乖離

自分の自己評価が低すぎると言われたことがある。ずいぶん前のことである。それだと社会ではうまく生きていくのは難しい、とも言われた。

以前は、自分は凡人、むしろ落ちこぼれだと思っていた。だから自分が知っていることやできることは当然のように周りも当然できる、一方で周りの人の長所を知るとそれが自分はできていない、と劣等感を抱いていた。

幼い頃は親から、常識がないとしつこいぐらい言われていたような気もするので、一生懸命世間の常識というものを身につけようとしていたかもしれない。


その思い込みは、良くも悪くも大学院を修了しても続いていた。

だから、例えば高校の数学などでも、実際にはよくわからないという人もいるが、それはなにか謙遜であるとか、あるいは自分は数学の成績は比較的よかったので、自分と話すときのお世辞の類かとも思っていた。

また、それは大学、大学院にいっても同じであった。

本当はそんなこと当然知っているけど、分かりません、とポーズをしているのだと思っていた。

イメージとしては、テレビなどの街頭インタビューのようにフリップボードを持ってインタビューすれば、複雑な積分計算や留数計算などを即答は難しいにしても、さくっと答えてくれる、といった感じだ。

自分が苦労して大学大学院で勉強しているのは、一般の人よりかは能力がないからだと思っていた。

もちろん、それと同時に同じ学術の分野の研究者と比べたら圧倒的に劣っているとも思っていた。

だから、(あえて専門用語を出すということはないが)話の流れ上必要があれば、専門的な話や専門用語も平気で使って話をしていた。そして相手がわからないなどというと、少々イラっときていた。だって、自分が知っていることは当然のように周りも知っていると思っていたから。


それが、大学院を修了してもなお就職活動をしているときに、ある人から言われたのが冒頭の言葉である。

それは、ある意味で他人に能力がないことを許さないという風にも捉えられることもあり、それでは社会ではあまり好まれない、と言われた。

それ以前も薄々感じてはいたものの、明示的に言われたのはそれが初めてだったので、やっぱりそうだよなと思った。

その後いくつか大学院の研究室を訪問したが、大学の教授といえども他分野となると知らないこともある、という事実を以前とは違い素直に受け止めることができた。ましてや一般に人は、である。


そのように自己評価が低い原因はいくつか考えられる。

自分で明確に意識した努力というものはした記憶があまりなく(他人からみれば努力になっているようだが、自分としては習慣化していて努力と思っていないという意味)、しかも大学も妥協して入学し、努力に対する成果といったわかりやすい構図を意識する機会がなかったからだと思う。

二つ目はそれと関連するが、自分は大した資格も持っておらず、創作物などの成果も持っていないので、いざ自分がなにができるかと考えてみると、少々詳しい分野はあるにしても、オタクであるとかプロフェッショナルというレベルで知っているわけではないので、どれを取っても中途半端だなと感じるからである。


そういったこともあり今更ながらではあるが、努力を記録すること、またなるべく資格などに挑戦し努力を形にしていく必要があると考えた。

その手始めがこのブログ(継続と成果物)であり、先日はTOEFLを受験し(努力の可視化)、さらに今年はTOEICなども積極的に受けていこうと思っている。

2014年1月21日火曜日

一歩前進。

今日は、新しい職場での勤務開始だった。

初日なので、オリエンテーションと概要説明が中心。

研修の内容が思ったよりボリューミー;;量も深さもあるわ。研修がこれから一か月あるけど大変そう。
今回入社したのが自分一人。研修もマンツーマン。担当の方が女性なので、なにかあったりしないかしら←死ね。



それと先日、奈良先端科学技術大学(NAIST)の入試で必要な小論文の添削を、先方の研究室の先生に依頼していましたが、メールが返ってきた。

テーマとしてはまずまず面白そうだけど、もう少し具体的な話に落とし込んだほうがいいとのこと。具体的にどのようにすればよいかという提案も含めて丁寧にアドバイスを頂きました。お忙しい中ありがとうございます。


そんな感じで取り立てトピックはないので今日はこのへんで。

2014年1月20日月曜日

聖書を読んでみた

今日は朝予定が一つあっただけだった。前の職場を年内で辞めて以来、なかなか仕事が見つからなかったのだが、明日から働くことになった。

とりあえず一安心。

午後は勉強をしていた。

でちょっと思ったことが二つほどあるので書いてみようと思う。

TOEFLも終わったので、付け焼刃の勉強ではなく底上げの勉強として多読を再開した。

現在は合計70万語程の地点にいて、難易度としては英検2級より少し下のレベル程度の本をたくさん読んでいる。

TOEFLが終わってから読んでみると、読解のレベルがあがっているのがわかって少し嬉しかった。

わからない単語はちらほらあるにせよ、構文をとる能力があがっているのを実感できた。

(いわゆる受験英語っぽいニュアンスを含む気がするので、構文をとるというのはあまり好きな表現ではないが。)

とても文章がすらすら読めて、このレベルの英語だったら英語を読んでいるという自覚もあまりなく、内容自体を純粋に楽しめた。

だけれども、おごらずに地道に前進するのみ。

継続と習慣。



最近、聖書を読み始めた。

買ったわけではなくて、スマホのアプリでずいぶん前にダウンロードしていたけど放置していたものを使っている。

それより他にやることたくさんあるでしょ!という突っ込みは置いておく。

一応最低限やることはやってから読んでいるので。

昔一応通読はしたことはあるのだが、あまり理解できず、事実上は一応全ての文に目を通しましたという程度だった。

その後も何度か挑戦はするのだが、挫折していた。

それも同じ個所で躓いていたので、それをいつか攻略してやろうと思っていた。

創世記の第四章の後半と第五章に家系図の説明が淡々と述べられている。

いつもあまり詳しく読まず飛ばして読んでいたので、その後のストーリーが途端にわからなくなっていたのだが、ついに攻略した。

最初の方から要約をしつつ、難所の家系図はためしに図を書いてみた。書いてみて思ったが、こりゃわからなくなるのも当然といった感じの構造になっていた。

精読してみて、より疑問に思うところも出てきた。

ヤレドの子エノクと、カインの子エノクは同じ人なのだろうか。

それと、メトセラの子レメクとメトサエルの子レメクも。

ここは要確認だな。

誰か詳しい人がいたら教えてほしい。

もう少し区切りのいいところまで読んだら、要約をまとめてアップしようかな。では。

2014年1月19日日曜日

コミュ障

今日は家は家でゆっくりしていた。

昨日の天気予報では雪が降るかもといっていたので、もし雪が降れば初詣を兼ねて写真でも撮りに行こうかと考えていた。

寒いけれども良い写真も撮れそうなので、いろいろ一区切りついたところではあったので気分転換も兼ねて。

朝起きてみたら、とても雪なんか降る気配もなかったし、なんだかんだやるべきことはあるので家でゆっくり過ごしていた。



さて、今日は人との関わり方でちょっと思っていることを書こうと思う。

自分は、どちらかといえばあまり社交的ではない。一人でいる方が好きだ。

もう少し正確にいえば、人と話したり、関わるのも嫌いではない。

しかし、その切り上げ方がわからないのだ。

例えばお昼休みであるとか、どちらかに次の予定があって、ある程度自動的に、その場の関わりが終わるときなどは別に切り上げるタイミングを気にすることはない。

しかし、例えばパーティーであるとか、散策をしていて気になることに道草をくったり、時間制限はあるにしても、とても長くて事実上ないものとみなせる場合などは困ってしまう。


そのタイミングの取り方がいまいち分からないので、結局関わりだすとどのようにしてタイミングを見つけようか考えなくてはならないのが面倒なので、最初から関わるのを躊躇してしまう。

話題が途中で途切れるのも相手に興味がないということの裏返しにも取れてしまいそうだし、百歩譲って話題が途切れるのは仕方ないとしても次の話題をすぐ見つけられるのかも自信がない。

また席をはずすにしても、それがそのまま興味がないと取られることはないのだろうか。

一つの対策として、飲み会などの席などでは、お手洗いのために一度席をはずすという手がある。(お手洗いが本当でも嘘でも)

一度席をはずしてからであれば、その人との交流を一度打ち切って別の会話に移ることも特に不自然ではないと思う。

しかしそういう何か対策が考えられる場面なんて、飲み会などのある程度特殊なシチュエーションだけだと思う。

あとは集団で盛り上がるときも苦手。

誰かが音頭をとってそれに乗っかるのは問題ないのだが、自分からはじけるのはやはり抵抗がある。

どこで収まりをつければよいかわからないからだ。

誰かが音頭を取っている場合には周りを観察して、例えばその先頭の人が落ち着いて来たら自分も修めればいい。


書いていて思ったが、自分は周りの目を気にしすぎだろうか。相手に失礼とはいいつつも、実は周りからどう見られているか、自然にふるまえているのかといったことばかり気にしているのではないかと思ってきた。


そうか。。。書いていてなんとなくわかってきた。

2014年1月18日土曜日

TOEFLを振り返って

受験生の方は今日センター試験だったようですが、自分はTOEFLを受けてきました。

二回目の受験だったことや、前回よりも準備はできていたので、落ち着いて試験に臨めました。最近はずっと規則正しい生活もしていて、朝もすっきり起きれ、頭もさえていた。体調は万全。

現段階でやれることはやって臨んだので、そのような意味では後悔はない。ただ、当たり前ではあるがまだまだ精進が必要だ。

一段落ついたところで、今回の試験について振り返ってみようと思う。

全体を通して、今回は語彙力の強化が課題だった。前回の試験の時点では語彙力がなさすぎて、全体を通して全く歯が立たなかった。TOEFLにはリーディング、リスニング、スピーキング、ライティングと四つ分野があるが、何をやるにしても語彙がなければ話にならないと思ったので何よりもまず語彙力の強化に取り組んだ。

使用している単語帳は一周目を、少し余裕をもって終わり、とりあえずとして一通りの頻出単語には触れたという状態であった。実は、そもそもTOEFLの勉強を始める前の時点で、私は大学受験レベルの単語も完全に習得できているとは言い難いレベルだったので、かなり基礎的な単語も抽出された。

その後、試験当日までは知識の定着に努めていた。

このように、比較的頻出の単語も含め習得する必要もあり、当日までの時間の都合上なんとか一通り目を通すので精一杯であった。とても単語の意味に意識を集中しないで、自然に英語を理解するといったレベルまで調整するのは無理であった。

それは別に次回に活かすべき点ではあるが、後悔はしていない。そもそも最初からそのようなレベルまで到達するのは時間的に不可能なのはわかっていたので、まず目標として単語帳に一通り目を通すことを目標にしていたので、そういう意味では目標は達成できた。

そのおかげで、前回よりかは、全体として意味がとれるようになり、スピードもあがり設問にも対応することができるようになった。わずかかもしれないが成長は実感できた。

リーディングについては、今述べたように語彙を強化したので、前回に比べたらずいぶんと対応できるようになっていた。とはいえ、まだわからない単語や見たことはあるが意味が曖昧な単語などもまだまだあるので、そこはこれからの課題である。

リスニングについは、ほぼ全く対策をしていなかったが、想定していたよりかはできたと思う。ここは何も対策をしていなかったので、次回は対策をしていく。

スピーキングとライティングは合わせて振り返る。

ライティングは年明けからの僅かな期間ではあるが、毎日英語でブログを書きネイティブに添削をしてもらっていた。一つの投稿でそれなりの分量を書いておりそれを英語に訳していたので、そんな僅かな期間ではあるが、英語で書くことに対するハードルが下がった。

また、ライティングと直接関係はないが、普段は多読教材に取り組み、英語の本を読んでいる。そういう蓄積も成果があるのか、英語をアウトプットし続けていると、文法はあまりわからないがなんだか不自然な感じといったことが段々わかってくるようになった。例えば、この文脈だとここには名詞が来なくてはいけないであるとか、that節がくるであるとか、この単語のあとにはこの前置詞が来るであるとか、そういったことだ。
理屈がどうのこうのではなく、そうならないとなんとなく不自然に感じるのである。

とはいえ、まだ文法を意識しながら書いているので、これも意識せずに扱えるようになりたい。

英文が書けるようになってくると、書いた文をそのまま口にだせばよいので、少し話せるようにもなってきた。よく使う表現などもわかってくるのでそういうフレーズは実際にしようした場面をイメージしながら反復していると、日本語を介す前に反応できるようになってきた。

従ってスピーキングもライティングも特に対策らしい対策はせず、参考書を買ってどういう設問がくるのかといったことをチェックした程度で臨んだが、その割には対応できたと思う。

英語でのブログは継続するにしても、こんな無謀なことをするのもどうかと思うので、次回はもう少しまともな対策をしなければならないなと思う。


こんな調子に乗ったことを書いておいて、結果が想像より悲惨だったらただの痛い人だな。。。

「いつも通りのこといつも通りにやったので、自ずから結果もいつも通りとなる」と天野篤さんがいっているが、もっと精進して常にハイパフォーンスを発揮して、こんな言葉をいってみたいものである。



話は少し変わるが、TOEFLの勉強をしていて少し考えが変わった部分がある。

今までは自分の単語帳をつくるのは無駄だと思っていた。というのも、作るのに時間がかかるし、下手をすると作ること自体が目的になってしまいかねないからだ。

しかし今回勉強していて、単語を色々な角度から記憶して、なるべく忘れにくいようにと努力していた。その一つとして、単語だけピックアップをして、文脈とは無関係に意味だけ覚えるといったこともやっていた。それは、単語帳を作ったわけではないにしろ、いわゆる単語帳での勉強である。

英単語に限らず、特定の知識だけを反射的に答えられる状態にもしたいといったことは、比較的よくあるのではないか。そういう場合には、やはり自分で単語帳をつくり、1秒くらいでパッパッと答えらるように訓練するのもいいのではないかと思ってきた。

ちょっとやってみたいなとか、誰か作ってほしいなと思うのは、数学の公式、特殊関数の特殊値、歴史の年号、専門用語、微表情、プログラミングのコマンドなど。作るの面倒だし。




最後に、私自身の備忘録と誰かの参考になるかもしれないので、TOEFL受験の流れと持ち物について書いておく。申込後に届くメールが全て英語なので、少し面倒。

持ち物は身分証明書(写真付き)とレジスターズ番号(申込後に届くメールに記載)。筆記用具は不要。もちろん持っていってもいいが、向こうの用意したものを使用しなければならないので、持っていっても使えない。

試験開始の30分前から一応開場している。(メールにもそのように書いてある)

会場に到着したら、まずは同意書を記入する。これは同意書(英文)と記入方法(日本文)が書かれた書類がバインダーとして一つにまとめられそれにボールペンもついている。

それを記入したら、実際にテストを始める前に、顔写真を撮られる。その後パソコンの前に座りテストに取り掛かる。

2014年1月17日金曜日

センター試験の思い出

今日気付いたが、明日明後日はセンター試験なんですね。雪も降るとか降らないとか。

受験生はセンター試験ですが、僕は明日TOEFLの試験です。なのに、あまり勉強がはかどらなかった。とはいえ前回の試験に比べればずいぶん勉強はしたので、納得して臨めてはいる。

髪がずいぶん伸びていて、うっとうしかったので、明日の試験で集中できるように散髪もしてきた。

明日は集中して臨もう。


さて、せっかくなので今日は自分のときのセンター試験について書いてみようと思う。

センター試験のときに、シーズン初の雪が降るというジンクスがあって、自分たちのときにも雪が降った。前日まで天候なんか崩れる気配もなかったのに、朝起きたら雪が降っているという不思議。

駅から会場まで、雪による臨時のバスがでていた。

当時、国立理系志望だったので、国語や社会(倫理)も選択していた。

高校時代、変な意地を張り予備校へは通っておらず、自分で勉強をしていた。しかも3年の10月まで部活に参加していた。

スケジュール管理などというものもやっておらず、そのときの気分で勉強をしていた。

特にひどかったのが、学校の英語の授業では、英語の教科書を新学期早々捨ててしまい、授業では替わりに物理か数学の参考書を読んでいた。

英語では、毎回毎回、順番に当てられるのだが、自分は教科書を忘れましたといっていた。そのうち、自分の番だけ飛ばされた。いわゆる受験勉強的な英語の勉強が嫌だったのだ。でも、英語の成績が良かったわけではない。むしろ一番下から二番目。一応どの分野行くにしろ英語は必要で、危機感は抱いていたので自分で勉強はしていた。

ひたすら数学と物理の勉強だけをしており、化学の含めそれ以外の勉強はほとんどしていなかった。われながら馬鹿である。

数学と物理に関しては学校の先生の指導に恵まれたこともあり、受験のレベルを超え成績はずいぶんよかった。

数学と物理をそれなりにやったところで、夏頃から化学の勉強も始めた。化学は最初の方が既にあまり躓いていたのでそんな時期に最初から勉強を始めた。その時に化学の教科書を読んでもわからないままだったので、「新研究」という分厚い参考書を読んで勉強したら詳しくてとても理解がはかどった。

しかし、結局センターまでに有機化学の分野がほぼ全く間に合わなくなり、なんとなくうろ覚えの知識で臨んだ。

倫理については全く勉強していなかった。



そんなふざけた状況で臨んだセンター試験。

詳しい結果までは覚えていないが、数学はそれなりいい点数、物理は一問ミスだった。悲惨だったのが倫理。

受験者の平均点数が70~80点ぐらいのなか、自分は30点ほど。偏差値は28とかだった気がする。その時はむしろ偏差値28なんて値が存在すること自体に驚き笑うしかなかった。

そんな状況だったので、当然国立なんか受かるわけもなく、滑り止めで受けた私立大に合格した。

失敗はしたし、当時は現役にこだわっていたから浪人という選択肢はなかったが、浪人をしたとしても、このときに受験に必要な知識意外にも、反省すべき点として色々なことを学んだ。



そんな反省を踏まえ、その反省を社会人としての行動指針にアレンジしつつ日々精進している。しているはず。

受験生のみなさんセンター試験頑張ってくださいな。自分はTOEFL頑張ってきます。

印象に残っている映画

昨日は眠すぎて、ブログを更新せずに寝てしまった。

あまりにもネタがなかったので、映画について書こうと思う。

何十回も、というほど見たわけではないが、何回か見た映画に「ベストキッド」、「魔女の宅急便」と「耳をすませば」がある。ジブリ系でいえば「天空の城ラピュラ」も何回もみたが、進んでみたわけではなくこれはテレビで放送されていればみたという程度。

「ベストキッド」については、オリジナル版とリメイク版があり、オリジナル版はたしか4まである。
自分は、ジャッキーチェンが主演のリメイク版を最初にみて、オリジナル版はまだ3までしかみていない。

個人的な感想としてはリメイク版のほうがメリハリが効いていて好きだ。ドレの屈辱、少林寺拳法の習得の地道さと鮮やかな側面などがオリジナル版より強調されていて、泣けてしまう。

オリジナル版は4まであるが、リメイク版は2以降は制作されないのではないかと思う。公式な発表はされていない気がするが、リメイク版の公開から時間は経っているのに、噂も聞かない。是非2も制作してほしいのだが。

これを何度も見てしまうのは、典型的なサクセスストーリーだからだと思う。ドレはハンさん(ジャッキーチェン)の下で修業するわけだが、ハンさんから与えられる課題の意味を初めは理解できない。しかし、ひたすら繰り返し繰り返し、身に刻まれていくうちに、本人も意識しないうちに体が無意識に反応できる次元まで到達している。そして最終的には、武術大会でライバルを破り優勝するという形で修業の成果が花開く。

その究極系が、映画の中でいえば師匠のハンさんにあたり、前半で4人の少年を相手に戦うが、かなりの離れ技でも自然の流れとしてやってのける。
熟達すれば、傍からみると離れ技でも本人にしてみればなんなくできるようになるといった幻想を抱かせてくれる。

割と自分の価値観はこういった映画に近いと思う。



「魔女の宅急便」は以前も書いたので省略。知らない土地で、最初は異邦人だがその土地の人ととのコミュニケーションの中で自分の存在価値を見出していく、再認識していく、そのことに共感を覚える。映画では土地だったが、これは組織などにでも同じだろう。



「耳をすませば」は、恋愛の側面に魅かれる人もいるのであろうが、自分は進路に悩んでいる若者の描写というのが、共感を覚える。

自分はもう若者というほど若くはないので、自分の可能性を見つけるというよりかは自分の決めた道で進んでいくという立ち位置にいるが、自分の道を決めて精進しているせいじ君と、進路に悩んでいるしずく、普通であるしずくに共感し、なにか発見しようとするその姿勢に引き込まれ、そしてせいじくんとの対比でいろんな人がいるんだということで、みていて自分を納得させられる。


何回も見た、これから見る機会があるだろうという映画ではこんなところが印象に残っている。

2014年1月15日水曜日

彼女の作り方

恥ずかしながら、自分はいままで彼女というものができたことがない。

高校と大学はオーケストラサークルでそれなりの異性に触れ合う機会があったにも関わらずだ。

「彼女と付き合う」というがその定義が未だによくわからない。

同性異性問わずに使う「ちょっと付き合う」という意味の付き合うとは、厳密に同じではないにせよ近い意味なのではないかと思う。

つまり、行動を共にするという意味だ。

行動を共にするといっても、具体的に恋人同士で使う場合どう意味が違うのかわからない。

いわゆる世間でいう「付き合う」という状態には、わざわざ宣言してなるものではなく、お互い魅かれあって行動を共にしているうちに頻度が高くなり自然となるものではなかろうか。

それとももっとエグい意味で、SEXを許す間柄になるという意味なのだろうか。

でもそれだって、付き合う宣言をしたところでSEXの許可が暗黙の了解になるとは限らないし、一方で宣言をしなくても肉体関係になることはある。

行動を共にするというのも、いわゆる友人同士の間で使うよりも、もっと行動を密にするという意味で使うのであれば、自分は面倒だ。

行動を共にすることを強制されているようだから。

自分一人でいたいときだってあるのに。いちいち相手をするのも面倒くさい。

一種のステータスとしてとらえられることもあるが、そんなことで自分のプライドを満たしたくはない。

本当に好きな人ができたら考えは変わるのだろうか。

一緒にいたいと思うものであろうか。

ということで、彼女募集中である。

2014年1月14日火曜日

閉鎖空間・隔離空間の魅力

今日はあまり勉強がはかどらなかった。TOEFLも近いのに。
いろいろ無駄な行動が多かったな。それに、集中力が続いた時間が短かった。その原因はだいたい推測できるけど。反省反省。



さて、今日は昨日の続き。予告編で気になった映画がもう一つあるという話。

「奴隷区 僕と23人の奴隷」という映画だ。







タイトルから想像する限りではあるが、どこか閉鎖空間を舞台にした話なのだと思う。

このような閉鎖空間であるとか、隔離空間を舞台にした話は興味がある。

自分なりにそういったカテゴリーに分類される話としては、ドラマなども含めると例えば「僕らの勇気-未満都市-」「バトルロワイヤル」「ファニーゲーム」「es」「20世紀少年」などがある。忘れてるだけで他にもあるかも。

少しいくつか補足を加えさせてもらうと、「僕らの勇気-未満都市」昔やっていたkinki-kidsが出ていたドラマであるが、残念ながらDVDは出ていないらしい。TSUTAYAで探してみたが、ビデオのみの模様。

また、「20世紀少年」というのは、物理的な空間あるいは領域といった意味では閉鎖的でも隔離的でもない。しかし、正義と悪が混同されている世界で、通常の意味での正義の側の人間からすれば精神的には追いつめられて閉鎖的な状況ではあると思う。それにさらに絶望感も加わっているのだが。

最後、「ファニーゲーム」というのはミヒャエル・ハネケ監督の作品だが、この監督の作品として「ピアニスト」「白いリボン」をみたが、それだけ観ただけでも、頭イカれてる監督だというのがわかる。最大限の褒め言葉である。他の作品もいづれ見たい。


さて話をもとに戻すと、これらに興味があるのは、いわゆるスプラッタ映画やホラー映画とは違い、ある種リアリティを持っており、その中で人間の本性、例えば残酷さや理不尽さをあぶり出しているからだと思う。

スプラッター映画はあれはあれで刺激的ではあるが、リアリティはあまり感じない。ホラー映画も同様である。観ていて引き込まれるものはあるが、リアリティがあるかというとそれはまた別問題である。

一方で、閉鎖空間あるいは隔離空間が舞台というのは、それらよりかはリアリティがあるように思う。

もし、閉鎖空間や隔離空間でなにか本当におぞましい事が起こっていた、あるいは起きているとしようではないか。しかし、そんなものはあったとしても、極秘にされていて自分達は事実を知ることができない。

また、舞台設定としてはかなり特殊ではあるが、描かれていること自体は極限状態での人間に心理である。極限状態における心の動きをみることによって、自分の中に普段は意識してはいないがあるかもしれない残酷さや理不尽さを投影するからこそ魅かれるのかもしれない。


本当にこんなことがあったら恐ろしいけどありえなくはないという微妙なリアリティ、それと極限状態で描かれる心理が自分たちの深層心理の投影、この二つがあるからなんとなく観たくなってしまうのではなかろうか。


2014年1月13日月曜日

「魔女の宅急便」に想うもの

前回は、トリックを観てきたことについて記事を書いたが、予告編で宣伝されていた中にも、気になるものがあったので触れようと思う。

二つあって、一つは「魔女の宅急便」。実写化されるらしい。




「魔女の宅急便」は好きで、おそらく10回以上は観ている気がする。好きだからこそ、あえて実写化しないでほしかった。
そういう意味で非常にショックである。夢を壊さないでほしい。なんでもかんでも実写化すればよいというものでもないと思う。


さて、今回はなぜ「魔女の宅急便」が好きなのかということだ。

自分が共感するのは、全く知らない町で生活をし、最初は異邦人であったが、その土地の人とのコミュニケーションの中で徐々に信頼を築き、居場所を獲得していく、という過程を描いているところである。

それは単に歓迎されているということとは違うと思う。歓迎をする、ということはそれはある意味で外部の人間だと認識をしていることになる。そうではなくて、歓迎はもちろんしているのだが、いろんな感情を含めてそこにいるのが当たり前、自然な状態になっているというのが、居場所を獲得したということである。

もう少し言葉を変えてみれば、歓迎されている、というのはある意味ではいなくてもルーチンを回すには問題ではないということではないだろうか。
居場所を獲得するというのは、他人との関係が形成されるということだと思う。


上記のような、テリトリーの獲得の描写がなぜ好きなのかというのはあまり考えたことがなかった。

この記事を書くにあたり考えてみた。

一度外部に出て、評価が全くのゼロの状態から、自分の居場所を獲得していくなかで自分の存在価値を再認識できるからではないだろうか。

その土地の人と関係が築かれて、さらにその土地の土地勘なども獲得し、自分自身でもそこにいることが当たり前だと感じられるようになってくると安心するのである。





もう一つ気になった作品というのは「奴隷区 僕と23人の奴隷」であるが、それは次回。

トリック(劇場版)を観てきました!

昨日になりますが、トリックを観てきました!



ちなみに写っているのは自分ではありません。友人です。

ネタばれはしないようにしますが、相変わらず小ネタをちょこちょこ挟んできて、面白かったです。いちいち笑える!
映画館のお客さんもみんなわらってたし笑)

最後の結末ですが、個人的にああいう結末は好きです。



昨日は16:00ぐらいからの回をみる予定でした。まあ私は、親には言っていませんが、仕事をしているという体になっているので、8:00くらいには家をでて映画まで時間をつぶしました。とはいえブログの更新などなどやることはあるので、カフェなどを梯子して時間をつぶしてました。

さていよいよ待ち合わせの時間が迫ってきて、待ち合わせ場所に行くも一向にこない。待ち合わせ時間をずいぶん過ぎてもこないので、LINEで何度か呼びかけると、寝坊したとのこと。なにー!結局次の回をみることになりました。2時間ほどさらに時間が空いてしまったので、電源のあるカフェを求めて新宿をふらつくもどこも満席。結局紀伊国屋で、適当に本を立ち読みしてました。


映画が終わったのが21:00前だったのですが、それから牛角へ焼き肉を食べにいきました。日付が変わるころまで飲んでお開きとなりました。

映画をみるまでに、ずいぶん歩き回ったので少し疲れましたが、映画もみて焼き肉も食べて、と珍しく充実した一日でした。




2014年1月12日日曜日

速く、正確に、そして無意識的に

今日もTOEFLの勉強をした。今日はCDも聞いて耳からも学習してみた。

単語の記憶があいまいだったころは、音としては認識できるものの、どんな意味だっけといちいち立ち止まってしまい、その間に音声はどんどん先へ進んでしまい、結局要点を聞き逃す、みたいなパターンが多かった。しかし、今では結構難しい単語でもあまり考えることなく聞いたまま理解できるようになってきた。そういう意味では、着実に前進をしていることを実感できてよかった。

勉強をしながら、自分がイメージしている熟達という状態が、具体的にはどういう状態なのか、頭を駆け巡っていた。
だが結果として、おそらくそれは当り前だろうという定義にたどりついてしまった。

今に気づいたことではないが、自分は熟達していく過程は好きだし、何かに熟達している、いわゆる職人といわれるような人達も尊敬してしまう。
少し具体的にいえば、音楽家、アスリート、科学者など、固有名詞もだすのであれば、上記でいうような職人というイメージと少しずれてくるかもしれないが、天野篤、福島孝徳、イチロー、井畑弘和、工藤公康、石井裕などなど。もちろんこの他にもとてもすごい人達はいらっしゃるでしょうが、メディアなどで取り上げられて感銘を受けたのがこの人達。
とてつもない努力を継続していて、努力することも継続することも素晴らしい上に、とても謙虚に鍛練をしている。


熟達しているというのは、「速く、正確に、無意識的に」処理ができる状態になっていることだと思っている。

楽器の練習や語学の学習、あるいはスポーツの練習で考えるのがわかりやすいが、例えばいちいちどのように体のどの部分をどのように動かすかなんて考えていたら、上達はしない。練習をすることにより、より速くより正確に、そして考えなくても身体が反応するレベルまで達している状態がよい。
もっと言えば、考えるより前に身体が反応はしているのだが、それに対しての理屈や説明を求められたら、速やかに対応できるというのが望ましい。
無意識的でも意識的にもできているという状態。


では、なぜその状態になること=職人になることに憧れるかについて考えてみたところ、それがその人の努力を反映しているからではないかという結論にたどりついた。

何を処理するかにもよるが、おそらく頭の回転が速い人であれば、速く正確に処理することはわけがないと思う。しかしそれに考えなくてもということも加わってくると、少し話しが違ってくると思う。

何度も何度も繰り返すことによって、まさに体に刻み込んでいくというのは、時間がかかることであるし努力が必要である。

頭の回転がお世辞にも早いとは言えないので、努力のあとがその人自身のスキルという形で表現されている、職人に憧れるのだと思う。


ちなみに、「速く、正確に」というのは、自分のビオラの先生にくどく言われた言葉。
それにさらに「無意識的に」という言葉を加えて、目標としている。


最後に、ちょっと本文とは関係ないけど、好きな名言を。

「いつも通りのことをいつも通りにやったので、おのずと結果もいつも通りになる」(天野篤、天皇陛下手術後の会見で)

「人の2倍働き、3倍の結果を出す」(石井裕のモットー)

「われわれは天才ではありませんから、基本的に、考えつくほとんどのアイデアはゴミです。ほとんどCかDでたまにBがあって、Bを磨けばAになるかもしれない」(石井裕)

「出すぎた杭は打たれない」(石井裕)

「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへいくただ一つの道だと思っています」(イチロー)

2014年1月11日土曜日

音読

今日は少しゆっくり起床しそのあとはTOEFLの試験も近いので英語の勉強をしていた。

少々遅れ気味だったLang-8にアップする文章を訳して、その後にTOFLEの勉強。毎日こうしてアップしているブログの内容と同じ内容を英語で書いている。

今日は音読をしてみた。音読をしたいとは常々思っているのだが、恥ずかしくてなかなかできない。自分が使用している部屋が弟と相部屋のため、弟がいるときは音読はしたくない。かといって外出先でぶつぶつ音読するのも、ただの変人である。なので、部屋に自分しかいないときを狙ってぶつぶつ音読をしている。

いつもは文章の中で覚えるのが中心だが、音読をして自分で実際に発音をし、五感をなるべく使い、耳からも単語を覚えるのは、効果があると思っている。

音読をしながらイメージをすることで、すぐに意味がイメージできない単語があることで、覚えきれていない単語をすぐに発見できる。また、何度も音読することで、意味をとるスピードがあがるし、口や耳が単語を覚えてくれる。さらに言えば、TOEFLの文章は難解な文章だが、そのような文章でもどのように息継ぎをするかといったようなリズム感のようなものも体得すくことができる。

また、最近やっているのは、文章中でチェックした単語だけを別に抜き出し(これは電子辞書の単語帳に登録してある)、文章をみず、文章とは無関係に単語だけをみて意味を答えるといった練習もしている。

文脈で覚えるのも大切だが、それとは独立に単語だけをみて意味をパッと言えるようにする。

そういった、いろんな角度から記憶を補強していくと忘れにくいのではないだろうか。

英語に限らないが、最低限覚えておかなければいけない事項や仕事にならないようなことは、イメージとしてはフラッシュ暗算であるとか、あるいは海外ドラマのLie to me でライトマン博士が100人ぐらいの顔写真の中から特定の微表情だけを探しだす作業をやっていたときのような瞬間的にパッ、パッと処理していくような軽快さで判断できるぐらいのレベルまで持って行っていかなかればいけないと思う。

イメージとしてはそういう感じ。

2014年1月10日金曜日

ドグラ・マグラ


ドグラ・マグラの草稿が発見されたらしい。

この本は学生時代に一度読んだことがあるが、結局よくわからず。

題名が怪しい本ということでなんとなく聞いたことがあり、唐突に読みたくなり読んだのだ。

題名も怪しいが、表紙からして見るからに怪しさを醸し出している。


題名や表紙の怪しさに加え、昔の本だからということもあるが、カタカナ混じりで書かれていることもより怪しさを引き立てている。

全体としての内容も異常であるが、構成が劇中劇ならぬ作中作の形式にもなっているので、訳がわからない。そんな記憶しかない。

日本三大奇書の一つと言われているらしいが、その名にふさわしい意味不明な本である。

夢野久作の作品を全部読んだわけではないが、いくつか読んでみるとこの人の作風は一人称で独白の形で書かれていることが多いということだ。

手元に国語便覧があるので眺めてみるとそういうことが書いてあり、これが夢野久作の特徴らしい。

こういう形式は最近の本ではあまりないので、慣れないと少し独特に感じるだろう。

2014年1月9日木曜日

恩師という言葉について

サッカーの本田圭祐がACミランに入団したというニュースが流れている。

こういうニュースがあると、恩師へのインタビューなどが決まって放送される。

ふと自分にとっての恩師とは誰だろうかと考えてみた。

そもそもとしてどのような人を恩師というのかが未だによくわからない。自分にとって重要な意味をもっている人だろうか。

自分が今まで生きてきた中で重要な役割を果たした人は何人もいる。そのどれもが同じくらい重要なので、その中から一人を選ぶというのは難しい。
そういう意味では、恩師という特別な一人を選ぶことはできないし、一方でどの人も重要な恩師である。

また恩師という事で、誰か特別な誰かを指すのであれば、それ以外の人は重要であるが恩師ではないということで、それはそれで失礼な気もしてくる。
やはりどの人も自分にとっては重要な存在であったからだ。

恩師という言葉の定義についてはともかくとしても、やはり自分にとっては重要な役割を果たした人物というのは何人かいる。

まずは中学校の頃の塾の数学の先生だ。自分が数学に興味をもつきっかけを与えてくれた重要な存在だ。その先生は当時はまだ大学院で数学を専攻している学生だった気がする。しかし私にとって先生であることにはかわりない。
その先生は、数学の問題に対して、エレガントな解法から、あえて複雑な解法までさまざまなアプローチからの解法を紹介してくれた。論理的でさえあれば、どんなに自由に発想をしてもよい、むしろいかにユニークな発想をして問題をエレガントに解くかといったことが非常に楽しかった。ただ、「論理的でさえあれば」という部分は当時は表面的にしか理解していなかったが。
また、数学的にデリケートで先人がさんざん議論してきたような根本的な問題についてもエピソードなどを紹介してくれ、普段直観的に当たり前と思っていることにすら、いちいち疑問をもち議論を重ねているという、ある種の滑稽さも興味をひいた。
受験勉強についてはもちろん、そうでないことについてもいちいち先生に質問をしていたりもした。

そんなこともあってか、卒業を祝う会で、それぞれの先生が印象に残った生徒に先生賞という賞をくれるのだが、その先生から一番数学に興味をもったということで賞をもらったのは印象深い。

そういう訳で、数学に興味をもつことに影響を与えたという意味で重要な存在だ。


次が、高校のときの数学の先生だ。

当時私はお世辞にも数学が得意とは言い難かったが、数学のデリケートな部分の問題について授業時間外でも積極的に質問をぶつけていた。その場で即答はできないこともあり、回答を用意してくれてきたり、職員室の先生も巻き込んで相談してくれたようである。
とりたててエピソードのようなものはないのだが、「そういうデリケートなことをやりたいのであれば数学科へ進学すれば」と背中をおしてくれたということが重要である。もっともその頃には、すでにいろいろ調べ数学科へ進学することは決めていたのだが。


最後は数学とは関係ないのだが、高校大学時代と習っていたヴィオラの先生である。

高校入学時、音楽経験が全くないのにも関わらず、オーケストラ部に入部した。その部活はプロのトレーナーなどはいなく指導などは先輩やOBなどが行っていた。少なからず音楽の経験があり、しかも器用な仲間と比べて危機感を感じていた自分はレッスンをつけることにした。

レッスン生の年齢は幅広く、子供から大人までおり、なにか簡単な曲でもいいから弾きたいという程度の人もいたが、そんな中で音階、ボーイング、エチュードを中心にかなり基礎的なことをみっちりやって頂いた。

基礎を固めて頂いたというのも重要だが、練習の教材や練習の方法を教えてもらったということで、そういったノウハウは廃るものではないものを教えてもらったので、重要な時期だったと思っている。


冒頭に述べたように重要な人物は他にもいるが、その中で特に重要な人物を上げるとすれば、今の自分の形成にかかわっているという意味で以上の三人が恩師だと思っている。

2014年1月7日火曜日

私の英語学習法

今日はネタがないので、自分が英語をどのようにして勉強しているか紹介しようと思う。

ただ紹介に値するほどの勉強法というわけでもないだが。

自分は文法があまり好きではない。

理由ははっきりとはわからないが、強いて挙げるなら高校一年生のときの英語の授業に端を発すると思う。

当時は重箱の隅をつつくような文法ばかり講義された印象があり、にも関わらず英語がなかなか読めるようにもならない。

読めるようになっている状態をイメージ出来なかったので、文法を勉強する意味がわからず嫌いになった。

その頃から漠然とではあるが、ツールとして英語を使えるようになる勉強法は何かと模索するようになった。

多少の紆余曲折はあったものの、現在は基本的には大量の英語に触れるという方針で勉強をしている。

かの夏目漱石も大量の英語に触れることで英語を習得したようだ。

ある程度英語に慣れてきたら文法をやってみるのもいいかもしれないが、最初から文法だけというのはどうなのだろうか。

子供の言語習得過程と成人のそれを一概に比較することはできないが、やはりある程度大量に触れる中で習得する必要があるのではないか。

まず、一番のメインは多読である。

SSS英語学習法研究会というところが提案している学習法で、自分がそれまでにやってきた延長線上にあることもあり共感して、多読に取り組んでいる。

多読用の教材というのがあり、大型書店やあるいは大学図書館などにはあるのだが、それを使い易しい本から難しい本へ徐々に徐々にステップアップをしていく。

まあ詳細は
辺りをみてもらった方が早いので省略する。

基本的には語彙などはこれで習得。

但し、TOEICやTOEFLのよう試験のためにある程度語彙を増強する必要があるときは別途単語帳などを使って勉強するが、基本的には多読では辞書は一切ひかない。

文脈や状況から単語の意味がだんだんわかり、日本語を介さず直接イメージを結びつくようになる。

なので自分なんかは、示している内容はわかるが、それに該当する日本語がわからないといったことがたまに起こったりもする。

まあそれは日本語の語彙の問題か。

それとリスニングには、多読教材についてくるCDやTEDというサイトでいろいろプレゼンを聞くことで勉強している。

ライティングは最近始めたばかりだが、Lang-8というSNS型の相互添削サイトを使っている。自分の勉強している言語を添削してもらう代わりに、自分は日本語の添削をしてあげるのだ。

スピーキングは正直あまり取り組めていない。一度英会話カフェにいったことがあるがそれっきりだ。しいて言えばシャドウイングをしているぐらいか。

勉強を始めてから、当面の目標を「The Giver」「Holes」、「マチルダは小さな大天才」やシャーロックホームズシリーズを読破することに置いている。








「The Giver」というのは、翻訳版が存在していてそれを中学生のときに読んで考えさせられたのだが、平易な言葉で書かれているのだが、当時読んだときも、今思い返してみても、なかなか深いテーマを扱っていたと思う。

ただいづれもまだ達成できていない。

道のりは長いようだが、頑張ろうと思う。