2014年1月22日水曜日

自己評価の乖離

自分の自己評価が低すぎると言われたことがある。ずいぶん前のことである。それだと社会ではうまく生きていくのは難しい、とも言われた。

以前は、自分は凡人、むしろ落ちこぼれだと思っていた。だから自分が知っていることやできることは当然のように周りも当然できる、一方で周りの人の長所を知るとそれが自分はできていない、と劣等感を抱いていた。

幼い頃は親から、常識がないとしつこいぐらい言われていたような気もするので、一生懸命世間の常識というものを身につけようとしていたかもしれない。


その思い込みは、良くも悪くも大学院を修了しても続いていた。

だから、例えば高校の数学などでも、実際にはよくわからないという人もいるが、それはなにか謙遜であるとか、あるいは自分は数学の成績は比較的よかったので、自分と話すときのお世辞の類かとも思っていた。

また、それは大学、大学院にいっても同じであった。

本当はそんなこと当然知っているけど、分かりません、とポーズをしているのだと思っていた。

イメージとしては、テレビなどの街頭インタビューのようにフリップボードを持ってインタビューすれば、複雑な積分計算や留数計算などを即答は難しいにしても、さくっと答えてくれる、といった感じだ。

自分が苦労して大学大学院で勉強しているのは、一般の人よりかは能力がないからだと思っていた。

もちろん、それと同時に同じ学術の分野の研究者と比べたら圧倒的に劣っているとも思っていた。

だから、(あえて専門用語を出すということはないが)話の流れ上必要があれば、専門的な話や専門用語も平気で使って話をしていた。そして相手がわからないなどというと、少々イラっときていた。だって、自分が知っていることは当然のように周りも知っていると思っていたから。


それが、大学院を修了してもなお就職活動をしているときに、ある人から言われたのが冒頭の言葉である。

それは、ある意味で他人に能力がないことを許さないという風にも捉えられることもあり、それでは社会ではあまり好まれない、と言われた。

それ以前も薄々感じてはいたものの、明示的に言われたのはそれが初めてだったので、やっぱりそうだよなと思った。

その後いくつか大学院の研究室を訪問したが、大学の教授といえども他分野となると知らないこともある、という事実を以前とは違い素直に受け止めることができた。ましてや一般に人は、である。


そのように自己評価が低い原因はいくつか考えられる。

自分で明確に意識した努力というものはした記憶があまりなく(他人からみれば努力になっているようだが、自分としては習慣化していて努力と思っていないという意味)、しかも大学も妥協して入学し、努力に対する成果といったわかりやすい構図を意識する機会がなかったからだと思う。

二つ目はそれと関連するが、自分は大した資格も持っておらず、創作物などの成果も持っていないので、いざ自分がなにができるかと考えてみると、少々詳しい分野はあるにしても、オタクであるとかプロフェッショナルというレベルで知っているわけではないので、どれを取っても中途半端だなと感じるからである。


そういったこともあり今更ながらではあるが、努力を記録すること、またなるべく資格などに挑戦し努力を形にしていく必要があると考えた。

その手始めがこのブログ(継続と成果物)であり、先日はTOEFLを受験し(努力の可視化)、さらに今年はTOEICなども積極的に受けていこうと思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿