2013年10月5日土曜日

諸行無常

昨日、ヤクルトの宮本が引退した。そして今日は阪神の桧山が引退した。

家族が野球好きなので毎日野球は見ているが、僕自身は野球についてそんなに詳しいわけでもない。

宮本や桧山といった選手に特に思い入れがあるわけでもない。

しかしなぜか時代を感じてしまう。

誰かが逝去されたときや、引退したときに時代を感じるのは僕だけだろうか。

印象に残っている訃報や引退はいくつもあるけれど、一番最初に時代を感じたのはジャイアント馬場の逝去ではなかったかと思う。

はっきりと覚えているわけではないが。それ以来、時代の流れるスピードが速くなったように感じる。

なぜジャイアント馬場なのかというのはよくわからないが、リアルアイムで活躍している姿を知っていて、そういう人が亡くなったということで無常を感じたのだと思う。

それ以来、無常感を感じることは度々あって、すぐ思いつく範囲では、先日の山崎豊子の逝去、工藤の引退、いかりや長介の逝去、小渕元総理の逝去、高橋尚子の引退、清原の引退、桑田の引退、佐々木の引退、古田の引退などなど。

いつかくるとは分かってはいても、いざその場面をみると無常を感じてしまう。そして、自分もいつか同じ道をたどることを想像すると、さらに無常を感じてしまう。

2013年9月1日日曜日

非日常的な場の共有

地元でちょっとしたお祭りをやっていた。いつも使う駅の近くだったので少しのぞき、そのあとは中学の同級生と地元のお互い気になってた店で飲んでいた。
お祭りをみる度に思うのだが、お祭りの雰囲気が好き。ここでいうお祭りというのは、宗教的なものとか学問的に定義されたそういう厳密な意味ではなくて、いわゆる普通に「お祭り」というときのお祭りである。
他にも雰囲気が好きだな、と感じたお祭りはいくつかあった。分かる人にしか分からないが、名前をだしてみると熊野神社の祭りや大宮神社の祭りやしもたか音楽祭や札幌の雪まつりなどが好きだった。
なんで好きなのかを少し考えたところ、一言でいえば非日常的な場が共有されている状態が好きなのだと思う。




まず非日常的、と的がついているのが少しポイントで、完全な非日常ではなく、非日常ではあるがどちらかというと日常に近い、日常の中の非日常というのが一つの要素だと思う。完全な非日常もそれはそれで魅力的ではあるが。
そういう場では完全な非日常でも、もちろん日常でもみれないような、普段見れない別の側面が垣間見れたりするし、どちらの場でもなかなか言えないことや本音がぽろっと出やすい、だから好きなのかも知れない。
そういう場を共有することで、お互いの理解が少し進むような気がするから好きなのかもしれない。
場が共有されている、というのはなかなか説明が難しい。「場」というのは物理的な意味での空間の意味よりも、もう少し抽象度の高い意味である。共有というのもただ同じ空間にいるというのではなく、認識も共有している状態とでもいうのだろうか。
非日常的な場の共有という、「非日常的」、「場」、「共有」という三つの要素が、現段階での考えてはポイントだと思っている。どれか一つが欠けている状態も想定はしてみたが、嫌いではないが自分の感じているものとは少し違う気がした。
その他に意外と好きなのが、台風とか雷である。それらは不快感なども少し混じってはくるが、やはり非日常的な空間の共有ということになっていて自分なりに納得ができる結論である。
これを書いていて思ったが、祭りの歴史や、「日常」について先人がどのように考えてきたか調べるのも面白いテーマかもしれないと思った。いづれ機会があれば調べてみてそれを踏まえて感じたことを書いてみようと思う。

2013年8月25日日曜日

女性が苦手な理由

私は女性と接するのが苦手だ。嫌いということではないのだが、抵抗感がある。具体的に何が抵抗になっているのか、ということについて分析してきたこと、そしてできればそのもう少し先まで分析を進めたことについて書こうと思う。
まず一つはっきりと、これが出来ごとがちょっとしたトラウマになっているなと思い当たることがある。
小学校3年生頃だったかと思う。そのときの周囲の景色をなんとなくではあるが未だに覚えている。学校の教室で、机が全部後ろへ下げられている光景なのでおそらく放課後、そして人もまだそれなりに残っていて、がやがやしていたはずなので掃除の時間のちょっとした合間だったのではないかと思う。
列ごとにならんだ机の間で、女の子と向き合っておしゃべりをしていたはずだ。冗談かなにかをいった相手への反応として相手の肩あたりを少し小突こうと思ったのだが距離感の見誤りなのか肩ではなく、胸のあたりに触れてしまったのである。そして、「あ、セクハラだー」と言われてしまった。相手からすれば本気で言ったわけではないのだろう。しかも小学3年生の会話である。しかしそれが重大な罪を犯してしまったように、また相手から拒絶をされたように感じたのである。小学3年生でセクハラの意味も大して知らないのに、である。その相手の女の子が当時の自分にとって、かわいいと思っていた子であったし、仲のいい子でもあったから罪の意識や拒絶されたという意識がなおさら増幅されて感じられたのではないかと思う。
それ以来、たとえ仲のいい人へのちょっとした謝りでもセクハラと言われてしまうのではという恐怖で、安易に女性に近づくこともおじけづくようになってしまった。
セクハラという言葉の意味やことの重大さについて知るようになっていったことも原因だと思う。年齢を経るに従い世間のことを知るようになり、セクハラをすると捕まる、失うものが大きいというリスクの大きさや、またセクハラかどうかというのは相手がどう感じるかによるというような客観的にセクハラでないと証明することが難しそうな怖さなどから、誰がどうみてもセクハラとは思われないという行動をしようと思うようになり、ますます女性との積極的な交流を避けるようになった。
世間には、かっこいい男なら大抵許される、気持ち悪い男なら大抵許されないという、嘘か真かわからない傾向もあるようだ。自分の事について客観的な評価はわからないというのが正直なところであるが、自己評価としては、どちらかといえば気持ち悪い、不細工男の部類に入ると思っているので、何をしても拒絶されるのではないかと、無意識気的に怯え、臆病になっている気がする。
わからない、実際は思っているほど他人は拒絶していないのかもしれないが、やはり最初の一歩からして心理的バイアスがかかっているので、いつまでたっても不安を抱えているのかもしれない。

幸せとはなにか

最近、自分の周りで結婚をする人が出てきた。

主に女性陣だけど。

とはいえ自分と同年代なので、朗報を聞くと自分ももうそんな年なのかといろいろ考えさせられる。

世間一般には結婚というのは幸せの代名詞のように言われることもあるが、いざ現実感を伴って結婚の話しを聞かされると、結婚はおろか彼女すらできたことがない自分にとっては幸せとは何かについてついつい考えてしまう。

『幸せとはなにか』について直接的に考える前に、なぜ結婚するのかを考えてみる。

これについては、なんとなくわかる部分とやっぱりわからない部分がある。

わかる部分についてだが、この人と一緒にいれば継続的な歓喜・幸福・充実感・快楽・悦楽が得られる見込みがあるから結婚するんだ、という理由づけであればなんとなくわかる。

この継続的な歓喜・幸福・充実感・快楽というのは具体的にいえば、スキンシップから得られる(極端に言えばセックスなど)快楽やその前提にあるスキンシップを拒否されない、受け入れてもらえるという安心感、または話しがよく合うことによる得られる充実感や、相手に認めてもらえる(承認欲求を満たしてくれる)ことなどである。

スキンシップがコミュニケーションとして重要なことはいわずもがな、極端な場合としてのセックスが肉体的な快楽をもたらすことは大半の人にとっては周知の事実かと思われる。

この私自身、彼女はできたことがないが、セックスを一回もしたことはないという俗的な危機感と、気持ちいいと言われるセックスとはどのようなものか興味本位で風俗に数回だが行ったことがある。

実際やってみた感想として、いうほど気持ちいいかな?という感じであった。

そこから考えたことは、快楽いうのは肉体的な側面より、精神的な側面も少なからず影響しているときのほうが、あるいは精神的な側面が強く影響しているときのほうが得られるのではないかと考えた。

セックスをして快楽・悦楽に浸れるのは愛すべき人としているからであって、そこでは肉体的快楽はもちろんだが、相手が全てさらしだしてくれた、胸襟を開いてくれた、つまりそのような対象をして自分を認めてくれたということで承認欲求が満たされそれが肉体的快楽をあいまって快楽・悦楽を生んでいるのだと思う。

安心して自己開示できる相手、また同時に自己開示してくれる相手ということも重要かもしれない。

自己開示、つまり胸の内を話すということについて心理学的な深い理論はわからないが、経験則として心を少なからず満たしてくれるものだろう。

相手からの返答があるなしにかかわらず、聞いてもらうだけでも心が軽くなる。

しかしそのようなお互いに深い自己開示をできるまでの関係となる人はそんなにいないだろう。

その意味で、この人であれば自分の全てをさらけだせる、という確実かつ継続的に信頼できる相手と一緒にいたいと思うのは当然だろう。

一方でわからない部分というのは、継続的な歓喜・幸福・充実感・快楽・悦楽が得られる見込みというのを、どのように判断しているのかという部分である。

スキンシップなどの肉体的側面からの快楽については、継続的・連続的に享受するのは不可能であるが、そのようなことが受け入れてもらえる、という前提にある相手からの承認や信頼などについては継続的・連続的に享受することは可能ではある。

しかし実際問題としてはどうなのだろうか。新婚の頃などはできるかもしれないが、結婚後何年も経ち、お互いの存在が当たり前のようになったとき、相手からの承認や信頼などは実感として感じ続けることはできるのだろうか。

もし、結婚するに際しそのようなレベルまで求めてないよ、ということであればなぜ結婚をするのか全く理解ができないのである。

短いながらこれまでの人生で、この人と一緒にいて安心するな、満たされるなと感じた人は何人かいる。

しかし今過去を思い返してみると、その人達と一生を過ごすに値するかどうかというところに踏み込んで考えると、そこまでは考えられないなと思う。

もしかしたら、結婚というものを理想化しすぎているのかもしれない。

女性とまともにお付き合いをするということをしたことがないものだから、イメージだけが先行していることは否めない。

何年か、いや数カ月でもいいからお付き合いというものをしてみれば、その延長として結婚というのも考えられるのだろうか。

さて、次に幸せとは何かについて考えてみる。

果たして結婚=幸せだろうか。

上で、お付き合いというものをしてみれば、と書いたが、私の場合、独りでいる事に主に時間を割いていると思う。

私にとっては女性に限らず、他人と積極的に交流するより、自分の時間を大切にすることを優先しているように思う。

もちろん承認欲求などもあるが、結婚を考えたりするほど深く付きあい、承認欲求を満たすことは必要ではなく、ほどほどに満たせればよいかなという感じである。

あるいは認めてほしい対象が異性からのものではないのだと思う(ゲイいう意味ではない、念の為)
私にとっては自分の仕事等で社会に認められることに重心を置きつつ、異性との交流においてもほどほどに関係をもてる、ぐらいのバランスが幸せだと思う。

私のように社会からの承認を幸せと感じる人は決して私だけではないと思う。

そこで、結婚というのを特定の個人からの(深い)承認・信頼と読み替えてみると、一般化できるようにも思えてくる。

もしそのように一般化できるとするならば、結婚というのは幸せの特殊な場合ということになる。

自分にとってはこの推論過程が今のところしっくりくる。

幸せを他者からの承認だとするなら、それは自分の存在を他者によって意味づけされることであるから、当面の結論としては幸せとは自分の存在を他者によって意味づけされ、実感できること、としておこうと思う。

そしてこの幸せを求めて生きていこうと思う。

もっとももっと長いスパンの視点からみると、この幸せが本当に幸せなのかもあやしくなってくるのだが。

2013年7月17日水曜日

思考の停止

名古屋で起きたいじめによる自殺について思うことを書こうと思う。
http://www.asahi.com/national/update/0716/NGY201307160037.html



ここ近年、こういういじめによる自殺の事件は多い。一応、「担任」である以上自分のクラスから自殺者が以上全く責任がないとは言えないと思うが、このようないじめによる自殺ケースで担任の先生だけの責任だけやたら槍玉にあがるのは、一種の思考停止に陥っているようにも思える。


「はい、担任の人間性と指導方針に問題がありました、終わり!」として、誰かに責任を押し付けて、考えているふりだけして、問題に向き合おうとしていないようにも見えてくる。


報道の仕方で思うのは、まずシチュエーションの切り取り方が恣意的ではないかということ。クラスルームでの担任と生徒との間のやりとりがいろいろ報じられているが、事実がどうかわかりませんが、仮に事実だったとしても、切り取り方として恣意的に感じる。
言葉の上のやり取りだけみると、常識の欠落した異常学級と見えてしまうが、実際はその時の雰囲気などによってもやりとりのニュアンスは違って見えてくると思う。むしろ、その時の状況や雰囲気次第によっては、一連のやりとりをいかようにでも解釈可能な気がする。それは少し言いすぎな気もするが。そういった恣意的な切り取り方を極端に進めると、「日頃、何度かある生徒が、死ねと言っていた言われていた、教師は黙認していた」となり、全くその時の状況を抜きにして、本当に事実かどうか確認するもも困難なことを取り上げて、それを見抜けなかった、黙認していた教師の資質に問題がある、となる。
多分そういった事を懸念して、「冗談交じりでも死ねとかはいっちゃいけないよとマメに指導をしていた」そのように担任の方はおっしゃっております。


もうひとつは、生徒の証言が一致しないし矛盾もしている部分もあるということ。、アンケートや証言を基にして事実関係を調べているが、そもそもその信頼の妥当性などはきちんと検討されているのだろうか。
アンケートや証言を聴取したのが事件後。ただでさえ目撃証言を安易に信用してはいけないし、
例えば、http://www.ted.com/talks/scott_fraser_the_problem_with_eyewitness_testimony.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%BF%E3%82%B9
リンク等については最下段を参照。




さらに通常の状態で客観的で物理的な同一の刺激を感知しても、認知の仕方が人によって違うのに、(錯視など、リンクは最下段参照)言語表現の解釈の仕方なんてファジーなものを、同じものを聞いていても一致するわけがない。ましてやショッキングな事件のあとの聴取。主観的なバイアスがかかっていて事実が捻じ曲げられている可能性もある。
そういうことをきちんと厳密に検討をしてほしい。きちんと問題をに向きあう為に。


本当に問題を改善しようとするなら、専門家に依頼して生徒1人1人の証言の信頼の妥当性を科学的に検討してもいいのではないかと思う。もちろん、生徒の気持ちなどへの配慮も必要だが、それはきちんと保護者や遺族、世間に対してきっちり説明してでもやるべきだと思う。その個別の事件の為だけではなく、学術的な意味としても問題を分析し、いじめを根絶するための一歩として。専門家委員会が設置される見たいだけど、どんな人が入るのか気になる。




目撃証言について
http://www.ted.com/talks/scott_fraser_the_problem_with_eyewitness_testimony.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%BF%E3%82%B9

http://www.amazon.co.jp/dp/4762823279



錯視について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88%E9%8C%AF%E8%A6%96




2013年6月18日火曜日

数学を選んだ理由

自分の普段の考え方の傾向やクセについて考えている中で、大学でなぜ数学を専攻しようと考えたのか考えてみた。

就職活動をしていたときに、一度振り返って確認をした。理由は主に三つあり、一点目が発想力を求められる点。二点目が論理の厳密性。三点目が、前の二つと完全に独立ではないが自分の『口喧嘩が弱かった』というコンプレックス。

今回は三つ目について、二点目と三点目について少し掘り下げてみる。

口喧嘩が弱かったというコンプレックスも嘘ではないが、もっと印象的なエピソードがあったことに最近気付いた。

小学生の頃、宇宙に興味があってよく地元の図書館で宇宙の本を読んでいた。その中で、土星の環を天体望遠鏡で観察する話が書いてあり、土星の環を観察すると紙より薄く見えると書いてあった。
ある日の給食で、いつも六人ほどの班をつくって食べていたのだが、その中で宇宙のことに話が及んだ。そこで、土星の環は紙より薄いと知識を披露した。ところが、同じ班に中学受験をするとても頭の良い子がいて、土星の環は小惑星からできているんだよ、紙より薄いわけがない、と突っ込みを入れられてしまった。向こうは特に恥をかかせたなどとも思っていないだろうが、私にとっては恥だった。反論しなかったのは、ごもっとも過ぎて反論できなかったのか、中学受験するその子がいうんだからそうなんだろうと受け入れてしまったのかは忘れた。

『自分の誤読』と『そこに書いてある事が事実かどうか』は別の事であり、先のエピソードなどは読んだ本にどのように書いてあったか正確には覚えたないのでおそらく『自分の誤読』なのであるが、そんな区別を当時はできるわけもなく、そのことがあってから本に書いてある事柄は本当のことなのか、と疑う心が芽生えたのは確かである。但し、なんとなく無意識ながらではあるので、何度もそこに引っかかり、今でも全く引っかからないわけではないのである。判断が難しい科学的神話(オオカミ少女の話や言語相対仮説など)から、極端な例でいえばいわゆるトンデモ話まで。

ちなみに、反論が難しいなと思うパターンがあって、それはもっともらしい(統計的な意味ではなく、一般的な意味で)根拠を用いて、科学っぽい説明を持ちだして主張されるパターン。そういうのは、それを科学事実ではない、ということを証明するには何を示したらいいのかすらわからない。

話が少し脱線したが、それが今になっても、なんとなく癖になっていてニュースなどをみても、貧弱な知識ながら、それは事実か、前後の文脈や背景から事実を適切に解釈しているか、フレーズの切り出し方は恣意的ではないか、もし反論があるとすればどのような反論が可能か、意見に偏りや先入観がないか、論理のギャップはないかなどと考えながら見てしますのです。だから、周りからはひねくれ者という風に言われることが多い私。

2013年6月14日金曜日

雑多な思考

日々考えたテーマ

・学際的な交流によるイノベーションの加速とSNSとの関係。
SNS以外にも方法はあるか?


・生物の性はなぜ2種類か?
無性生殖という性が1種類という種はいるが、3種類以上のものはいないのはなぜ?


・人はある程度事象例が集まると、名前を付けることによって身分をつけたり社会的スペースを確保したがる。
例えば、ニートであるとか、フリーターであるとか、一発屋とか。
どの程度の事象例が出現すると、名前がつけられるのか。
→逆に考えれば、その数をコントロールすることで、社会をうまく回せるのでは?


・ある物事に意見を述べられるのは誰か?

・フレーズの切り取り方の恣意性について。
前後の文脈から切り離して、フレーズを恣意的に切りだすことが意味の変化にどのような影響を与えるか。
具体例をだそう!


・仮定を用いた意見や主張の表明について。
仮定の話はしたくない、という人がいる。

シンポジウムに行ってきました。

先日、第3回脳情報通信融合研究シンポジウム「脳科学で拓く次世代情報通信」というものに行ってきた。現在の研究者がどんなことを考えているのか、課題としているのかなどが聞けて面白かった。
印象に残っているのが、柳田先生の講演と池田先生の講演。
柳田先生は「ゆらぎ」の研究をしている方。脳は「ゆらぎ」というノイズを積極的に活用して情報処理を省エネ化しているとのこと。
具体例として、ミオシンの動きや、アメーバ細胞の動き、また脳が閃く際の脳の活動などを挙げており、これらはノイズを積極的に活用しているからこそ、効率的に情報処理ができるとのこと。ミクロレベルからマクロレベルまで階層を越えて現れるノイズこそが、情報処理の省エネ化のポイントなのではないかとのことだ。このノイズが情報処理に果たす役割について研究し、逆にそれを応用し現在の情報処理の省エネ化、エネルギー問題に貢献できないかと考えているらしい。
また池谷先生の講演はとてもおもしろいものだった。このかたは読売新聞にも記事を提供しているが、そこに掲載されている写真だと生粋の堅物文化人という印象だったが、フランクで面白い人だった。内容として印象に残っているのは、人間が感知できないものとして、赤外線や紫外線などと並列に脳の自発活動も挙げている事、失った感覚を他の感覚で代用することができるのではないかと主張していることなどでした。
パネルディスカッションのあとに参加者からの質問もいくつか受け付けていた。物理学科の人で、宇宙論との類似点などはあるかと質問している人もいた。
結局質問はしなかったのだが、私もこんなことを考えてみた。

①脳の再定義はできるか
②神経モデルのモデル自身に数学的な構造はあるか
③脳や知能と呼ばれるものを実現する他の構造はあるか

①は、実世界でも1秒の定義が変わったり、1メートルの定義が変わったりし、また数学などにおいても性質と定義を入れ替えて定義をするというようなことをよくやるが、そのようなことが脳や知能でもできるのかどうかということ。再定義できれば、③で述べるように一般化へと繋がる。
ここでさらなる疑問がでてくるが、再定義をすることの意味は一般化へつながるということ以外になにか他にどのような意味があるのだろうか。
②は、例えば可積分系とか量子群とか結晶格子のような数理物理などでやっているようなことを神経モデルでもできるだろうかという疑問。
根底を貫いている数学的原理などがあればうれしい。それが素数とかと関連してればなお面白いなどと妄想をしてみる。
③については、脳や知能をどう定義するかにもよる、という意味で①とも関連してくる。また、上手く定義できたとしてその定義を満たす構造はどのくらいあるのか。少し論理の飛躍を許してもらえれば、可能な構造がどのレベルの原理に依存しているかというのも気になる。多元宇宙論で考えられているように、可能な物理法則と対応しているのか、もっと根元的に可能な論理と対応しているのか。