2013年8月25日日曜日

幸せとはなにか

最近、自分の周りで結婚をする人が出てきた。

主に女性陣だけど。

とはいえ自分と同年代なので、朗報を聞くと自分ももうそんな年なのかといろいろ考えさせられる。

世間一般には結婚というのは幸せの代名詞のように言われることもあるが、いざ現実感を伴って結婚の話しを聞かされると、結婚はおろか彼女すらできたことがない自分にとっては幸せとは何かについてついつい考えてしまう。

『幸せとはなにか』について直接的に考える前に、なぜ結婚するのかを考えてみる。

これについては、なんとなくわかる部分とやっぱりわからない部分がある。

わかる部分についてだが、この人と一緒にいれば継続的な歓喜・幸福・充実感・快楽・悦楽が得られる見込みがあるから結婚するんだ、という理由づけであればなんとなくわかる。

この継続的な歓喜・幸福・充実感・快楽というのは具体的にいえば、スキンシップから得られる(極端に言えばセックスなど)快楽やその前提にあるスキンシップを拒否されない、受け入れてもらえるという安心感、または話しがよく合うことによる得られる充実感や、相手に認めてもらえる(承認欲求を満たしてくれる)ことなどである。

スキンシップがコミュニケーションとして重要なことはいわずもがな、極端な場合としてのセックスが肉体的な快楽をもたらすことは大半の人にとっては周知の事実かと思われる。

この私自身、彼女はできたことがないが、セックスを一回もしたことはないという俗的な危機感と、気持ちいいと言われるセックスとはどのようなものか興味本位で風俗に数回だが行ったことがある。

実際やってみた感想として、いうほど気持ちいいかな?という感じであった。

そこから考えたことは、快楽いうのは肉体的な側面より、精神的な側面も少なからず影響しているときのほうが、あるいは精神的な側面が強く影響しているときのほうが得られるのではないかと考えた。

セックスをして快楽・悦楽に浸れるのは愛すべき人としているからであって、そこでは肉体的快楽はもちろんだが、相手が全てさらしだしてくれた、胸襟を開いてくれた、つまりそのような対象をして自分を認めてくれたということで承認欲求が満たされそれが肉体的快楽をあいまって快楽・悦楽を生んでいるのだと思う。

安心して自己開示できる相手、また同時に自己開示してくれる相手ということも重要かもしれない。

自己開示、つまり胸の内を話すということについて心理学的な深い理論はわからないが、経験則として心を少なからず満たしてくれるものだろう。

相手からの返答があるなしにかかわらず、聞いてもらうだけでも心が軽くなる。

しかしそのようなお互いに深い自己開示をできるまでの関係となる人はそんなにいないだろう。

その意味で、この人であれば自分の全てをさらけだせる、という確実かつ継続的に信頼できる相手と一緒にいたいと思うのは当然だろう。

一方でわからない部分というのは、継続的な歓喜・幸福・充実感・快楽・悦楽が得られる見込みというのを、どのように判断しているのかという部分である。

スキンシップなどの肉体的側面からの快楽については、継続的・連続的に享受するのは不可能であるが、そのようなことが受け入れてもらえる、という前提にある相手からの承認や信頼などについては継続的・連続的に享受することは可能ではある。

しかし実際問題としてはどうなのだろうか。新婚の頃などはできるかもしれないが、結婚後何年も経ち、お互いの存在が当たり前のようになったとき、相手からの承認や信頼などは実感として感じ続けることはできるのだろうか。

もし、結婚するに際しそのようなレベルまで求めてないよ、ということであればなぜ結婚をするのか全く理解ができないのである。

短いながらこれまでの人生で、この人と一緒にいて安心するな、満たされるなと感じた人は何人かいる。

しかし今過去を思い返してみると、その人達と一生を過ごすに値するかどうかというところに踏み込んで考えると、そこまでは考えられないなと思う。

もしかしたら、結婚というものを理想化しすぎているのかもしれない。

女性とまともにお付き合いをするということをしたことがないものだから、イメージだけが先行していることは否めない。

何年か、いや数カ月でもいいからお付き合いというものをしてみれば、その延長として結婚というのも考えられるのだろうか。

さて、次に幸せとは何かについて考えてみる。

果たして結婚=幸せだろうか。

上で、お付き合いというものをしてみれば、と書いたが、私の場合、独りでいる事に主に時間を割いていると思う。

私にとっては女性に限らず、他人と積極的に交流するより、自分の時間を大切にすることを優先しているように思う。

もちろん承認欲求などもあるが、結婚を考えたりするほど深く付きあい、承認欲求を満たすことは必要ではなく、ほどほどに満たせればよいかなという感じである。

あるいは認めてほしい対象が異性からのものではないのだと思う(ゲイいう意味ではない、念の為)
私にとっては自分の仕事等で社会に認められることに重心を置きつつ、異性との交流においてもほどほどに関係をもてる、ぐらいのバランスが幸せだと思う。

私のように社会からの承認を幸せと感じる人は決して私だけではないと思う。

そこで、結婚というのを特定の個人からの(深い)承認・信頼と読み替えてみると、一般化できるようにも思えてくる。

もしそのように一般化できるとするならば、結婚というのは幸せの特殊な場合ということになる。

自分にとってはこの推論過程が今のところしっくりくる。

幸せを他者からの承認だとするなら、それは自分の存在を他者によって意味づけされることであるから、当面の結論としては幸せとは自分の存在を他者によって意味づけされ、実感できること、としておこうと思う。

そしてこの幸せを求めて生きていこうと思う。

もっとももっと長いスパンの視点からみると、この幸せが本当に幸せなのかもあやしくなってくるのだが。

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