2014年2月27日木曜日

Evernoteのノートの数が1000件を超えました。

Evernoteのノートの数が1000件を超えました。

1000件を超えたにも関わらず、まだまだ使いこなしているとは言い難いが、それでも自分の傾向が少し見えてきました。

そこで、少しEvernoteをどのように使っているか紹介してみようと思います。



基本的には、ノートブックで分類をしています。

書ける範囲で、どういうノートブックを作っているか紹介すると、、、

メルマガ:購読しているメールマガジンを直接Evernoteに送っている。


(jibunのノート):いわゆるその他の扱い。どこに納めるべきか良く分かっていないノート。

sample-code:webページをみていて、どのようなコードで書かれているのか気になったときや、その他プログラミングなどで参考にしたいものがあったときは、コードをコピペして保存している。

TED talk script:TEDのサイトで、自分が気に行ったTalkのスクリプト。

TOEFL:TOEFLの勉強の際に勉強したことをまとめたノート。

アイデア:そのまま。

ファッション:今自分が持っている洋服の写真。

ブログ:日々更新しているブログ。ここで下書きを書くとともに保存もここでしている。

プログラミング:自分の手で書いたものを保存。

下書き:あまりまだ考えがまとまっていないけど、キーワードだけをポツポツ列挙したり、あとは検索キーワードで、後日もっと後ろの方まで検索を見てみたい、検索ワードの組み合わせの覚書などを書いている。

各種テンプレート:主にTeXやXHTMLだが、最低限必ず書かなければいけないコードであるとか、特定の状況で使えるコードのストック。
しばらく使わないと書き方やコンパイルの方法すら忘れていることがあったので、最低限のことは本を引き出さなくても書けるようにしている。


思い出のメール:ガラケのときに保存しておいた、削除できないメール。まだガラケに少し残っているけど、なかなか書き起こす気力が起きない。

重要書類:契約書とか取扱説明書とか。とっておきたい重要な書類だけど、普段はあまり使わない書類など。

情報科学:情報科学に対する記事とかをストック。どの辺までが情報科学の区切りなのかは曖昧。Webアプリとかもこのへんに入れている気がする。

情報科学(論文):情報科学の論文

心理学:同様
心理学(論文):同様

数学:同様
数学(論文):同様

哲学:同様
哲学(論文):同様

脳科学
脳科学(論文):同様

調べたもの:上記以外で、特に上記の分野として調べたわけではないけども、調べた内容全般。とりあえずWebクリップをしてここに放りこんでおいてあとから必要があれば分類する感じ。

読書記録:Bookeverを使って読んだ本の記録。



こんな感じで分類しています。

とは書いたものの、まだあまりノート数が少ないノートブックもあったりします。




タグの方も結構使っていて、こちらは特に分類などは気にせず、ノートブックの内容に合わせて、どんどん気軽に振っています。

なので、数としてはタグの方が多いかもしれないですね。

自分的にこういう使い方はいいなと感じているのは、

メルマガのノートブックとSample-codeのノートブック、それとファッションのノートブック。


あとWebクリッパーを使っていたり、googleで検索をするときにEvernoteにも検索がはしるようにしていたりもします。


2014年2月25日火曜日

三色ボールペン

お気に入りのペンがある。

自分は、PILOT製のG-knockというゲルインキのペンをいつも使っていて、買うときは5本程をまとめて購入する。


書くときに抵抗がないし、文字が映えてはっきり書ける。それに、インクの出が悪くなることもあまりない。

極稀にペン先が壊れる?ことがあるが、稀なので上に書いた三つのメリットで十分に相殺される。



コンビニなどで売っているごく普通のボールペンだと、書くのにとても疲れる。それはインクの出がゲルインキに比べたらスムーズではないということにもよると思うが。

またシャープペンだと、文字が薄く、紙の色に埋もれてしまい、ぱっと見でなにが書いてあるのか判別できない。
それにこすれて劣化が激しいような気がする。



でいろいろ試すうちに、安いという魅力もあり、ゲルインキのボールペンに落ち着いた。



「三色ボールペンで読む日本語」に影響され、三色ボールペンを使ったこともある。


一時期は三色ボールペンを使い、本を購入しては線を引きまくっていた。

だが、基本的に専門書など値段が高い本を読むことが多く、線を引くために購入するといったことも懐の都合で難しくもなってきたので、次第に線を引くことへのハードルがあがった。

百歩譲って、市販されている専門書に線を引くことはできたとして、希少本はどうだろうか。

希少本を手に入れたとしても、とても線を引くことはできない。そういう場合にはむしろ線を引かないで大切に扱うことも本への愛情の形だと思う。

そんな意見をどこかで耳にし、共感した。


また三色ボールペン方式では、多分赤青緑のうち、青が一番早く減ると思う。

当時三色ボールペンを使っていたときは、明らかに青だけ減りが早かった。

そうすると、三色ボールペンのうち一色だけインクを変えるというのは、面倒くさい感じもするので、そういうこともあり単色のボールペンを使うようになっていった。



しかし、最近また三色ボールペン方式を再開してみようかと思っている。

経済的にも余裕が出てきたので、文庫や新書数冊程度なら気軽に買える。

やはり、自分が少し掘り下げて知識を得たいときは、線を引いた書物をそばに置いておくのもいいと思ったのだ。

図書館などで大量に本を読みあさるのもいいが、手元に置いておき、すぐに確認できるようにもしておきたい。

焦り

28日しかないので、如月も師走並みに過ぎるのが早い。

2014年になって、まだ2カ月だというのに、もう2カ月かという気がして早くもあせり始める。

3月初旬にある奈良先端科学技術大学院大学の受験も目前にせまり、受験に向けて、そして10月に向けてのスケジュールをどれくらいこなせたか振り返ってみた。

愕然とした。

数学の勉強がほぼ手つかず。

いや、大学大学院で散々やったから多分、なにもしなくても解けるだろうけどさ。

個人的には、数3・Cの勉強をあまり基礎をやらず我流でやってしまったので、正直パターンを見尽くしたというほどはやっていない。

そういう意味で、大学教養レベルの数学の復習も兼ねて勉強するはずだった。

が、問題集に一通り目を通して、やっぱり基礎レベルは問題ないよねということを再確認する程度しかできなかった。

本当は基礎レベルは盤石なレベルまでもっていくつもりだったのに。

とりあえず受験はなんとかなるだろうけど、応用をやる前に基礎を盤石にしたいので、もう一度期間を区切って、リトライしようと思う。

ただ、上に書いたようなことで反省は必要だけども、着実に歩めていることもある。

ブログなんか厳密に毎日ではないけれど、自分にしては更新できていると思うし、英語の勉強もTOEFLが終わったあとでもモチベーションを維持し練習できている。

まあ、前進はしていると思うので、前向きに考えようと思う。

2014年2月23日日曜日

丸暗記

先日TOEFLを受験した際の反省を踏まえ、最近英語の音読を始めた。

以前のエントリーにも書いたが、自分はTOEFLTEST 必須英単語5600を使っているので、そこに掲載されている文章を少なくとも一日一回、できれば一テーマ一日で終わらせられるように継続している。 

一テーマ一日で完了させるというのはなかなか難しいが、闇雲に急ぐで進めることが目的ではないので、そこは達成できなくてもあまり気にしていない。

音読の必要性

音読の必要性はTOEFLを受験する前、いやそれよりももっと以前から感じていた。

しかし、周りの目を気にしていてなかなかできなかった。

というのも、今自分は実家暮らしをしていて、自分の部屋が弟と共同の部屋である。弟がいないときは、部屋にこもって周りを気にせず、ブツブツと音読できるからいいものの、弟がいるときは、なにか恥ずかしくて音読ができなかった。

以前札幌で一人暮らしをしていたときは、思いっきりブツブツ声を出していたのだが。その頃がうらやましい。

やはり、弟がいるかいないかというような環境に左右される状態は不安定であまりよろしくないので、なんとかできないものかと考えていた。

そして最近考えたのが、仕事への行き帰りの途中に近くの公園で音読をするという方法だ。

仕事への行き帰りなので朝や夜になる。
真冬であればかなり寒いので、それも難しいと思っていたが、最近は段々暖かくなってきたので、できるようになってきた。

単語帳であればそんなにかさばるものでもないので、普段から持ち歩き、行き帰りに公園に数十分寄り道をして音読するという日課になった。

頭に入ってくれば、単語帳を見なくても暗唱できるようになってくるので、移動時間など隙間の時間があれば、口に出すようにしている。

なにを優先するかにも依ってくると思うが、ある条件の下で自分がやりたいことを実行するのか、と考えることは大切なことだと思った。

それが、私の場合は人目を気にしてしまうし、家族にまだ本気で勉強しているのを、なにかさめた目でみられるのも嫌だったというのが、一番優先順位が高いことだった。

丸暗記

それにしても丸暗記するという作業が最近減っていたような気がする。

以前ビオラをバリバリに弾いていた頃は、曲などを弾く際に、譜面を見なくても暗譜でも弾ける程度まで練習していた。

実際本番のときに譜面をみるのかみないのかは別としても、練習のときに暗譜でも弾ける程度まで達していないと、とても本番の時には演奏できないからだ。

極端なことを言えば、頭で考えながら弾いているようでは演奏はできない。

理屈ではなく、体に刷りこませて体が自然に反応をするようにしておかなければ、とてもおぼつかない。

とはいえ、実際は表現方法や周りとのアンサンブルなどの要素が絡んでくるために、考えながら演奏はしているのだが、そういった重要な部分に注意のリソースを充てることができるように、単に譜面を正確になぞるといった基礎的な事に無駄な注意を払わなくてもいいように、練習や訓練が必要なのだが。

当時まだ私は学生で、数学を専攻していた。

数学という分析的な思考とは対照的に、理屈抜きに体に覚え込ませるという過程は新鮮だった記憶がある。

車輪の両輪のような役割を果たしていた。

語学学習と楽器練習との類似

語学の学習も似ているのではないだろうか。

単語や文法なども大切ではあるが、ある程度基本的なことが理解できるようになってからは、理屈を抜きにしてひたすら英語を自分の内側に蓄えていくことが重要なように思う。

実際に話をする場合には、単語の意味や文法や発音などを細かく考えているわけではない。

いや、考えている人いるかも知れないし、考えてもそれはそれでいいのかもしれないが、リソースの無駄遣いをしているように思う。

理屈ではなく、何度もしつこくしつこく、いろんな角度から体に覚えこませる。

そして理屈がわからなくても、なんとなく文法的に正しいか正しくないか、自然な表現であるかそうでないかといったことが感覚的にわかるようになってくる。

もちろん、理屈の上でもわかるに越したことはない。

それは読み書きをするだけの場合でもある程度は当てはまるのではないかと思う。

表現の仕方や伝える内容など気を使うところは他にもたくさんあるので、基礎的なところにリソースを使うのはもったいない。

さいごに

今のところ、同様の原理が働いていると思っているのは上で書いた二つのみだが、他にもあるのかもしれない。

ちなみに数学は似ている部分もあるが少し違うと思っている。プログラミング言語の習得なんかは近いかもしれない。

なにか他にもあれば教えて頂けるとありがたい。

今までは音読をする機会が十分満足にとれなかったので挑戦を控えていたが、その機会を確保することができそうになったので、ドイツ語やフランス語などにも挑戦をしたいと考えている。

Pairs

昨日は土日にしては珍しく8時頃には起きて活動していた。

お昼ぐらいにクリーンングに出していたズボンを回収しにいった。

ドライクリーニングが必要なズボンを3本もっていたのだが、クリーニングにださずしばらく放置して、最近は安物のズボンを使い回していたが、それもいっともないと思ったので、クリーニングに出してきた。

そんなことをしているうちに15時頃になってしまった。

もっと早い時間に外出して図書館にこもるつもりだったのに。

15時頃からという遅い時間であるが図書館で出かけた。

夜に新宿で用事で用事があることもあり、ついでなので新宿区中央図書館に行ってみた。

数年前に移転をしたのだが移転後は初めて行く。

場所もよくわからなかったのでそれを探す意味もあった。

いざ行ってみると、場所がわかりずらい。

到着までに2時間かかってしまった。移転前のほうがわかりやすかった。

それに図書館内も移転前の方が広々としていた印象があるし、移転後はなにか一時的な施設という内装が否めない。

綺麗ではあるが、非常に簡素な内装だったのだ。

その後、21時からは人と約束。

FacebookのPairsで知り合った女性と食事の約束があったのだ。

こういう出会い系サイトにいる女性はサクラが多く、実際に対面することはできないという噂もチラホラを耳にしていた。

何度かアプリの上でメッセージを交わし、途中からはLINEでの会話に変わった。

PairsそのものがFacebookアカウントをベースにしていて、LINE上での会話ができたし、話している内容がとてもリアリティのある内容だったので、サクラではないだろうとは思いつつも半信半疑ではあった。

ただ、LINEはもちろんであるが、Pairs上でもメッセージの交換は無料なので、特別出会えなかったからといって不利益を被ることはない。

なので、あえればラッキーというぐらいの、あまり期待をせずに臨んだ。

結果はというと、なんと会うことができた。

実際にあってみると、美人で素敵な方であった。 

21時からという遅めの時間からではあったので、2時間ほど食事をしてお開き。

普段とは違う方とお話できて、ドキドキもあり、刺激的な一日だった。

2014年2月19日水曜日

芸術と文化の違い

佐村河内さんの騒ぎの件で、読売新聞に三人の識者が投稿していた。うち二人の文章を抜粋する。
そもそも西洋音楽は、長い歴史と伝統の上に成立したとても洗練された芸術様式の一つだ。そのエッセンスは「物語」ではなく「音」そのものを一つ一つ積み上げることによって音楽を語るところにある。(細川俊夫)
昨年発覚した食品偽装問題でも感じたことだが、私たちは自らの感性で食べ物や音楽を味わい、その良しあしを判断する能力が衰えてきていると思う。自分で判断できないから、わかりやすい感動にすがってしまう。そして、だまされたとわかると、自分を棚に上げて一方的に非難する。本当にそれでいいのだろうか。
「交響曲第一番」の作者は耳の聞こえる別の作曲家だった。その事実が「曲そのもの」の価値をそれほどまでにおとしめるのだとしたら、私たちはそもそも「曲そのもの」を聴いていなかったことになる。ただ泣ける音楽がほしかっただけかもしれない。そこに最大の反省点があると思う。(岡田暁生)
とても共感できて、すかっとした。
しかし一方で、自分としては少し消化しきれないものもある。
クラシック音楽が芸術として確立している。これについては自分を含め、大抵の人は合意してくれるだろう。
その他の音楽、例えばPopsを初めとして、民族音楽や雅楽などは芸術とは言わないのだろうか。芸術と呼ぶかどうかはともかくとしても、素晴らしいものであることに変わりはないのだが。
それぞれの音楽は扱われ方が違うように思う。
クラシック音楽では主に「曲そのもの」または、作者によって曲をみる。一方でPopsでは演奏者(歌手)によってみられることが多い。また、そもそも作者不明の曲もあったりもする。
Popsをどの位置に置くかというのはわからないが、民族音楽など作曲者不明のようなものは、文化と呼ぶほうが適当な気がしてならない。
そういう視点に切り替えをしていくと、Popsも芸術というより文化なのだという見方もできるような気がする。
個人的にはPopsというのはあまり好きではない。クラシック音楽だけを特別扱いするのではなく、その他の音楽と同様に芸術としてみようとは、気をつけてはいるが、やはりPopsはあまり好きになれない。もちろん中には素晴らしい曲もあるのだが。
作曲者が表にでることはあまりなく、どちらかというと演奏者(歌手)が表にでている。
歌手に作曲者が提供をしているという構図であって、一見したところでは歌手(演奏者)のほうが立場が上に見える。
そういう意味でアウトソーシングが行われているので、曲自体を制作した人の哲学というのが間接的で見えにくい。
だが、芸術ではなくて文化としてみれば、少し親しみもわいてくる。
そういうような思考を巡らせていくと、芸術と文化の違いなどがよくわからなくなってくる。
ながながと書いたがこのエントリーで結論はでない。もう少し掘り下げて考えてみる必要があるようだ。

2014年2月18日火曜日

感受性

単調な日々を過ごすのはつらい。毎日、朝起きて仕事に行き、特に変わった事があるわけでもなく、夜には帰ってくる。

しかしこれが普通のことであり、こういう変化のない日常に耐えることが社会人なのかなとふと思ったりもする。

こんな考え方は未熟かもしれないが。これが、自分の仕事に誇りをもち、日々充実過ごしていれば話しは違ってくるのだろう。

ブログに書く話題も探しつらくなってきたことや、退屈な日常に潤いをもたらすためもあり、なんでもない日常から感じたことを書いてみようと思った。

ところが、一時期はただ歩いているだけでもなにか感じることもあったのだが、最近は歩いていてもなにも感じない。

例えば、家と最寄駅までの道のりもただの作業になってしまっている。




感受性という言葉で何を意味するのかはわからないが、自分には感受性がないなと思う。




昔は、感受性という言葉の意味を勝手に想像し、理想化していた。

当時の自分自身、はっきりと自分なりの定義をもっていたわけではないので、今の自分でもはっきりしたことは書けない。

それでもあえて書いてみると、いわゆる文学作品に対して造詣が深く、登場人物の気持ちを想像できたり、日常を擬人化して表現できる能力があることを感受性がある、と思っていたような気がする。




今でも、感受性という言葉の意味するところはいまいちわかっていない。

しかし、昔のほど限定された意味では考えてはいない。また、感受性が重要になってくるのは最後の部分だと思っている。

感受性と理性は背反するものではない。理性を駆使して技術を高めていき、それが十分に飽和し最後の決め手になる段階でやっと感受性の要素が必要になってくるのだと思う。

まだまだ、感受性や感性、個性といったものが重要な要素になる段階まで至ってはいない。

日々努力をして、できて当たり前の事を増やし、個性を表現できる段階まで達したい。

その段階まで達したときには、おそらく自分の職種はなにかという問いは意味をなさなくなるだろう。

2014年2月17日月曜日

テレビ画面の向こう側

気付くと時間を取れれているので、なるべくテレビはみないようにはしている。

といっても実家暮らしで、そんなに広い家でもなく、家族がテレビをみているので、ついつい誘惑に負ける事も多いのだが。

特に冬場は。自分の部屋は寒いしあまり綺麗ではないので、暖かいリビングに居座ってしまうのだ。




騒がしいバラエティはあまり好きではないが、それでもいくつか好きな番組がある。

どれということではないが、気楽な番組だ。

例えば、ぷっすまとか、もやもやさまぁーず、まつこ有吉の怒り新党、ぶらり途中下車などである。

スタジオでのバラエティは基本的には苦手だ。(よほど内容がしっかりしている場合などは別)




今まで、テレビを意識していない発言や、あえて逆に素人のようにテレビを意識した発言、やる気をあえて放棄した振る舞いなどが魅力的なのだと思っていた。

つまり、気楽に観れるし、逆にテレビを意識していないからこそのライブの本音がでている感じがして、面白かった。

それ以外のバラエティでは、テレビを意識したテレビ向けの側面で、全てが予定調和のようで好きではなかった。

でも少し考えてみたところ、それ以外にも理由があるようだった。

一つはラフな段取りでもなんとか「作品」になる、と思わせてくれ、テレビの中の世界が手の届きそうな世界にあると思わせてくれること、もうひとつは出演者が気取らずにとても自然体なので、よそ行きの顔をつくるのが苦手な自分としては、あれぐらいなら自分でも出来そう、と思わせてくれることだった。




番組を進行する以上、多かれ少なかれ段取りはしているだろう。実際は自分が想像しているよりかは綿密に段取りを組んでいるのかもしれない。

しかし、一見したところ段取りが少なそうな番組をみることによって、綿密な段取りや場の仕切りが上手くない自分にとっては、そんな自分でもなにか作れそうという気にしてくれる。




また作る側ではなく、出演する側で想像をしてみても、よそ行きの顔をつくるのが苦手な自分としては、あんなテンション低くてもいいんだとか、あまり筋が通ってない適当な発言をしてもいいんだとか、そういう姿をみると、なんか自分でも出演できそうな気がしてくる。




そういう番組のほうが割と長く続いている感じがするので、特別テレビをその時間に合わせてみているわけではないのだが、なんだかうれしい。

2014年2月15日土曜日

冬の日の幻想

先週に引き続き、今週末もまた雪だ。今年は雪が多いような気がする。

東京でこの景色をみるのは新鮮だ。札幌にいた頃を思い出す。


チャイコフスキー交響曲第一番「冬の日の幻想」という曲がある。

自分は縁があり2回演奏をしたことがあるが、タイトルの「冬の日の幻想」と実際に演奏してみた曲想がうまく結びつかずにいた。


二年間札幌で暮らしていたが、北国で生活をしてみると、あのような曲想が少しは理解できたような気がした。そんなことを、新千歳空港から札幌へ向かう列車で景色の眺めなら考えたりしたこともある。


まず、共感できるのが一楽章。

ところどころ、フォルテッシモで同じ音形をしつこく繰り返す部分がある。

札幌で生活をしていると、冬には一週間ずっと吹雪で、どんより雲が覆っていて太陽がいっこうに見えないということもあった。

それに耐えていると、まだ続くのかという思いにもなってくる。少しうんざりし、精神的に参りそうになっても耐え続けるという過程を経ると、あのしつこいフレーズもなんとなく共感できてくる。



二楽章の冒頭では、冷たい空気感やつんと張った空気感、広大な大地が表現されている。

いづれもなんとなくイメージはできていたが、いまいち実感としては理解できていなかった。

これも、広大な大地以外は、実感として理解ができた。



四楽章の後半では、和音が重ねられ、弦楽器は細かく刻んでいる。

自分としては、実際の演奏とは別に、楽譜が白い音符でずっと書かれていることもあり、雪の白さや、寒さで頭が真っ白になりぼうっとしている状態をイメージしていた。

実際に生活をしてみると、吹雪で視界がはっきりせず、幻をみているようなイメージもしっくりきた。


こういう風に改めてイメージしてみると、「冬の日の幻想」というタイトルも理解できてくる。



バレンタインデーの思い出

中学生の頃にもらったチョコレートのことを思い出した。

自分にとっては思い出深いチョコレートだ。

バレンタインで義理ではあるがチョコレートをもらう度に思い出す。


中学生の頃、好きな人がいた。

三年間同じクラスでそのうえ行動をともにする機会も多かったので自然と好きになった。

そういう意味では単純接触の原理による可能性が高いので本当に好きだったのかはわからない。

同じクラスに加え、席も近くになることが多く、同じ班になることも多く、何度かある遠足で同じ班として行動することも多く、同じ委員会にも何度かなって仕事も共にした。

周りからは、しっかりしている人と言われていたので、僕と彼女で班長副班長になることが多かったり、委員会で二人で残って仕事をすることもありコミュニケーションする機会も多かった。

そのなかで、生活委員会といういわゆる風紀委員のような仕事を一緒にやったことがある。

仕事の一つで、生徒の下校後に残り、教室の見回りの仕事があった。

基本的には二人しか残らないので、その頃からそれを利用して帰り道を共にしてみたりもした。

生徒は下校したとはいえ校庭などでたむろしている人はいるので、その人達にその姿を見られていたので、周りからは付き合っていると思われていたようだ。

それが付き合っているということなのかは未だによくわからない。

そして想いも伝えたが、伝え方が悪かったのか、「ありがとうございます」と言われそれ以上の明確な返事はなかった。

その後バレンタインが訪れ、その日は教室見回りの当番だった。

見回りが終わり帰り支度をしているときだ。

窓から夕焼けに染まりつつある日が差し込んでくる二人だけの教室で、クッキーをプレゼントされた。

どういう意図があったのかはわからないが、少なくともクラスの生徒に配っている姿は見ていなかったので、自分へのプレゼントだと思いとてもうれしかった。

少なくとも、マイナスの感情は抱いてはいなかったのだろう。

それだけで十分満足だった。


この一連の出来事が今でも時折、淡い思い出としてであったり、なぜ何度も絶好のチャンスがあったのにもうひと押ししなかったのかという後悔の思い出としてよみがえってくる。

2014年2月14日金曜日

一段落

 今日、奈良先端科学技術大学院大学に入学願書を提出してきた。

ちなみに、数理情報学研究室志望で願書を出した。

小論文がうまくまとまらず、またお金が足りず受験料の支払いも間際になってしまった。

特に小論文はA4二枚を目安に埋めようと内容も少しボリュームを増してしたのだが、Evernote上でプレビューしたのと違い、いざTeXを使ってコンパイルしてみると3枚になってしまい、今度はどこを削るかということに頭を悩ませてしまった。

提出した小論文は機会があればアップしようかと思う。


しばらく、ブログの更新も滞ってしまった。

話題がなかなか見つからなかったということもあるが、小論文の作成を最優先にしていたからだ。

それなりに具体的な研究の計画を書く必要があったのだが、分野を変えての進学のため、手探りの部分が多い状態である。

短い期間ではあるが可能な限り調べて書き上げたかったので、結果として天井がみえず、ほとんどの時間を小論文に充てる事になってしまった。


それにしても、このようなパターンに弱いと、今更ながら思った。

毎日の日課にしていたことも、最優先の用件でしかも天井がない又はとても高い場合などに時間を全てそちらに充ててしまう、結果としてルーチンが滞ってしまう。

しかも、最優先の用件が割り込んできたことを、ルーチンをさぼる言い訳にしているような気がしなくもない。


とりあえず、一段落はしたのでまたブログを再開していきたいが、今後このようなケースにどのように対応するべきかは課題をするべきだと思った。

2014年2月8日土曜日

大喜利・間の研究

人工知能について考えていることで、難しそうだなと思ったことについていくつか書こうと思う。



1.
IPPONグランプリという番組が好きだ。

今でこそ名も知れてきたが、最初は深夜での放送だったと思う。

一個一個ネタが短く独立しているのでどこから見ても楽しめるし、「なぜ、どこが面白いのか」などを考える前に笑える瞬発的なネタを提供してくれる。

なにが面白いのかわからないけど、笑える。でもチャレンジしている側は非常にセンスが問われるし、無駄に体を張って笑いをとりにいくような下品な番組ではないというところも、個人的にはポイントが高い。

IPPONグランプリに限らないが、大喜利を人工知能にやらせるのは難しいのではないかと思った。

既に、人工知能のワトソンがクイズ大会で優勝をした。

クイズ大会のように、正解を答えればよいというものではない。前後の文脈であるとか、背景的な知識とか、そもそも面白いというのを機械が理解をして対応しなければいけないと思うので非常に難しいと思う。



2.
間というのはなかなか難しい。

音楽や演劇などの時間芸術では、間というものも重要な役割を果たす。

うまく間をとらないと、うまく全体が閉まらなかったり、いわゆる場が流れるという状態になってしまう。

鈍感な人だと、人間であっても「間」や場が流れるといった状態をそもそも理解できなかったりもする。

しかし、いざ「間」とは何かを明確に説明しようとすると困る。

どうすれば、間がうまく決まるのかはノウハウとして説明することは、音楽や演劇などのレッスンで実際に指導することができるように、可能かとは思う。

だが、それを機械でそのまま実装したからといって、機械が「間」を使いこなせるようになるとは思えない。

組織に対する誇りや愛着

自分が所属していた組織などに誇りや愛着をもっていない。

それがなぜかクールでかっこいいと思っていた。

理由ははっきりとはわからないけれど、いくつか思いつくものがある。

その一つが昔メタルギアソリッドというゲームである。

主人公スネークのように国籍などが不明で自分の出身もよくわからないが、それでも生き抜いているという姿がかっこいいと思った。

二つ目が、自分に自信がなかったことの反動だ。

自分には実力があるから、本来であればどこの組織にいることもできるけれど、その組織がたまたま今いる組織だっただけである。

なので、他の数多ある組織と比較して特別になにか感情を抱いているわけではない、また組織の知名度などを自分の後光とするつもりもないですよ、と思いこむことで、自分の自信のなさをごまかしていたのだ。


もちろん、上記のことも嘘ではないのだが、その他にも理由があることに気付いた。

それは、自分が結果を出せなかった場合の言いわけの用意であった。

本気で心血を注いで取り組んだのに、大した結果が出せなかった。

それは非常に恰好がわるい。

そういう場合に、どのタイミングかはわからないが、「そもそも組織に対して愛着を持っていなかったので、本気も出していなかったから、こういう結果になるのは当たり前」という言いわけをして、死ぬ気で努力することを逃げていたようにも思う。


そういう風に、様々なことを振り返っていくと、それぞれ取り組んでいた当時に本気で取り組んでいただろうかと思う。

詳細に振り返れば、確かに自分の睡眠時間やプライベートの時間も削り、ときには優先順位を変更したりもして取り組んでいたので、その当時は当時なりに本気で取り組んでいたのだと思うが、まだなにか改善する余地があったのではないかと思う。

強いて甘かった点を挙げるのであれば、PDCAが出来ていなかったと思う。

ただひたすら、目先のことだけを一所懸命に走っていた。



現在、夢を追いながら仕事をしている。

仕事は仕事なので、いつも本気で手を抜いているつもりはないが、しかし特に情熱というものはもっていない。

仕事だから本気でやっている、それだけである。

趣味のサークルなどがあれば話は違ってくるとは思うが、現在は特にサークルなどには所属していない。


必ずしも生活の全てを組織にささげることだけが、組織に愛着や誇りをもつ手段の全てではないと思う。

というか、社会人で仕事以外でそんなことをするのは、まず無理だ。


でも日々、PDCAを心がけることや、その時点でどの程度本気をだせ実行していけるのかを意識していれば、結果として組織に対する愛着や誇りは持てるようになると思うので、今度環境が変わり別の組織に入るときは、意識していこうと思う。

2014年2月4日火曜日

統合開発環境のインストール

一昨日の日曜日には家に閉じこもりって作業をしていた。

今までやろうやろうと思って放置してきた、C/C++の統合開発環境を導入した。

これまで統合開発環境というものがどういうものなのかよくわかっておらず、プログラミングをするときはテキストファイルとコンパイラだけで行ってきた。

例えば、C,C++,Tex,XHTML,Javascriptなどをすべてメモ帳に書いていた。

Texは大学院の時は周囲はWinsellを使って作成をしていたが、メモ帳で書いてコマンドプロンプトからやっていたので、よくわからないけど難しそうといわれたこともある。

最初に教わったのがコマンドラインから実行する方法だったので、すごいというより、むしろそれしかわからないといったとこが正直なところだった。



プログラミングなどに詳しい人と話をすると、テキストエディタのこだわりと同時に統合開発環境の話もよく出てくる。

テキストエディタとコンパイラがあれば十分じゃね?と思っていたので統合開発環境を使う意味がよくわかっていなかったし、今でも正直あまりわかってはいないが、統合開発環境について全く知らないというのはヤバイと思ったので、使ってみる事にした。


コンパイラと一口にいってもいろいろなメーカーのものがあるように、統合開発環境にもいろいろある。

統合開発環境というのがそもそもなんなのかということも下調べをし、ついにインストールをした。

例えばこんなところが参考になった。


でインストールしたのは、BCC developer。



先日、PythonとMySQLもインストールをしたので、ずいぶんと環境は整ってきた。そして今まで理解を放置していたことも理解が進んだ。

せっかくなので、プログラミングでもしてみようか。

2014年2月2日日曜日

味覚や臭覚を検索する。

「検索」とはなんだろうか。

検索の歴史をたどってみると、古くは図書館の目録から本を探すという行為までさかのぼるのではないかと、ざっと調べた感じでは思われる。

現代では検索アルゴリズムの発展により、Web上に存在する莫大な情報のなかからさまざまな事を検索できるようになった。

キーワードを打ちこめば、それに対応して結果が出てくる。

結果の順位付けの仕方にはいろいろ方策はあるにせよ、基本的にはキーワードを含む結果を返す。

それ以外にも、概念検索といって似ているものを探すといったことも今ではできるらしい。(幾つかの指標によって検索対象をベクトル空間の点とみて、距離を計算して近いものから順番に返すらしい)

キーワードではなくても、自然言語の入力対して結果を返すということも、スマホなどでご存知のように、できる。




しかし検索をするのに、言語を入力としてとるのは本質的だろうか。

さらに言えば、通常は出力がWEBページで、それはテキストや画像、音声しか含まれていないが、それ以外にも出力することはできないのだろうか。




そんなことを考えていたなか、先日NHKで五感に関する研究開発が盛んになっているというニュースをやっていた。

そこで九州大学の味覚・臭覚センサ研究開発センターを紹介していた。

味覚や臭覚を数値化して、客観的に扱えるようにするということを研究しているらしい。


それを観ていて思ったが、検索する際の入力や出力として、味やにおいをとる事はできないのだろうか。




一度数値化し符号化する以上、突き詰めてしまうと冒頭に述べた入力を言語にとるというところからは逃れられていないのだが、それでもやはり検索の対象は広がっているように感じる。




概念検索のように、似たものを検索するいう検索自体もそれほど難しくはないだろう。

それでも入力と出力が、インターフェースの都合で難しいような気がする。

というかそんなインターフェースを聞いたことがない。

そういう、言葉ではうまく表現できないようなものってのは検索できるようにはならないか。

非常に不勉強ではあるので、なにか情報を知っている方がいたら紹介してくれると有り難いです。

一か月が過ぎて~その2~

このまえの続きを書こう。

今年の目標としていた英語と数学についての部分だ。

英語についてはTOEFLがあったこともあり自然と英語の勉強はできていた。

ただし、仕方のないことかもしれないが、試験に向けての付け焼刃的なトレーニングになってしまい、多読や英語版のブログまで手が回らなくなっていた。

試験も終わったので、日々の鍛錬とテスト向けの勉強をハイブリッドでできるようにバランスよく勉強していこうと思う。


数学についてはあまりはかどらなかった。

優先順位として、まずブログ、その次に英語、そして数学というように決めていた。

今までは優先順位を決めていなかったためにどれも結局は長続きしなかったので、優先順位を決め優先順位が下のものはできなければできないで仕方ない、下のものもできるようにするために優先順位が上のものに早く慣れて時間短縮をしていこうと思っていた。

それに数学は散々今までやってきたので、少し他の事に時間を使おうと思ってもいた。

また英語などは、移動の時間など細切れの時間でも取り組むことができるのに対し、数学はなかなかそうもいかないので、なかなか取り組むことができなかった。



優先順位を変える気は当面ないが、このままでもいいとは思っていないのでなにか対策を考える必要がある。

やはり数学と英語は基礎体力であり、一朝一夕でスキルがあがるわけではないので地道に続けていく必要があると思っている。

この三つは、「やるべきこと」ではなく、「日々の習慣」として確立しそのうえで他のことに仕える時間を作りたい。

TOEFLの結果

TOEFLの結果が返ってきた。

前回よりはスコアは向上していたが、前回に比べしっかり準備した割にはこの程度の点数アップで少し残念である。


具体的なスコアについて書くことはできないが、意外なことにReadingのスコアが一番悪かった。しかもダントツで。

一番自信があったのでショックであると同時に、四つの分野の中でいったら一番点数が取りやすいのではないかと思っていたので意外でもある。

Readingができるだけの語彙力などがなければ、その他の分野なんかできるわけがないと思っていた。



先日のブログにも書いたように、準備したとはいっても、なんとか単語帳に一通り目を通しすことができたといったレベルで血肉にはなっていなかった。

TOEFLという一つ区切りは過ぎたが、次回のテストに向けて毎日の継続を大切にしていこうと思う。

2014年2月1日土曜日

一か月が過ぎて

一月に入ってブログを続けてきたが、数日途切れてしまった。

途切れてはしまったが、また走りだすために、タイミングもいいので一月の振り返りをしようと思う。


今年の目標を一つは継続と習慣、もうひとつは「アウトプットを大切に」とうことをテーマにしている。

継続と習慣というのは特に、英語、ブログや数学を想定している。

優先順位としては、ブログが一番であった。

一月に入ってから、遅れる事はあったものの毎日ブログを更新してきた。それは主に話題を見つけるのに苦労したからであった。

しかし、数日前途切れた時は、あまりにも話題がなさ過ぎて、過去の話しを掘り起こそうにも頭が回らなかったからである。

2週間前、新しい仕事をはじめた。コールセンターの仕事ということもあり、下手に仕事の内容を書いて情報漏洩になっても嫌なので、仕事のことは書きたくない。

なので、一日の大半を費やしている仕事について書けないとなると話題がないので本当に困る。

それなりに内容のある文章を、みなさんはどうやって話題を探して書いているのだろうか。

ふと思ったが、お昼でどういうお店で食べたかといったことであれば話題を「作れ」そうである。もしかしたら今後そういう話題での投稿もあるかもしれない。



そもそもなぜブログをやろうと思ったかというと、何か生産をしたかったからだ。

自分は就職活動に失敗し、周囲は堂々と働いているにも関わらず、自分は派遣社員という身分だ。引け目を感じていた。

自分なりの社会人の定義というのが、価値を生産して社会に貢献しているということだ。

もう成人になり良い大人になったが、ふと過去を振り返ると、自分がなにも生産していないのではないかという不安に駆られる。

大学院まで修了をして数学をやってきたが、ずっとインプットばかりをしてきて、論文としても大した内容が書けず、とても価値を生み出したとは言い難い。

そんな不安もあり、まずは手短にできることとして、ブログを始めて文章を通じてわずかでもいいから価値を生み出したいと思ったからである。



さて、いざ文章を書いてみると、自分の知識や思考の浅さを痛感した。

何か一段階掘り下げ、引用などをして文章を書こうとすると、キーワードや概要などは知っているものの、物事の本質などまではなにも理解しておらず、自分の血肉になっていないことに気付かされた。

これからは、アウトプットに耐えられるような知識の習得を意識していこうと思った。



ブログが一度途切れてしまったのは残念だが、あまり気にしないことにしている。

完璧主義を求めないことを心がけているからだ。

完璧主義を求めることによって、一日途切れただけで、怠慢だと自分を責め始めると精神衛生上よくない。一日途切れただけで、挫折したと思いこみそれ以降全く途切れてしまうのは最悪だ。

多少途切れたとしても全体として、それなりに継続できていればよいのではないかと思う。

自分は自己評価がとても低いのだが、そういう完璧主義であったところにも原因はあったと思うので、それは改善すべきだと思っている。



長くなってしまったので、英語や数学の目標については、またの機会にしようと思う。