2014年2月27日木曜日

Evernoteのノートの数が1000件を超えました。

Evernoteのノートの数が1000件を超えました。

1000件を超えたにも関わらず、まだまだ使いこなしているとは言い難いが、それでも自分の傾向が少し見えてきました。

そこで、少しEvernoteをどのように使っているか紹介してみようと思います。



基本的には、ノートブックで分類をしています。

書ける範囲で、どういうノートブックを作っているか紹介すると、、、

メルマガ:購読しているメールマガジンを直接Evernoteに送っている。


(jibunのノート):いわゆるその他の扱い。どこに納めるべきか良く分かっていないノート。

sample-code:webページをみていて、どのようなコードで書かれているのか気になったときや、その他プログラミングなどで参考にしたいものがあったときは、コードをコピペして保存している。

TED talk script:TEDのサイトで、自分が気に行ったTalkのスクリプト。

TOEFL:TOEFLの勉強の際に勉強したことをまとめたノート。

アイデア:そのまま。

ファッション:今自分が持っている洋服の写真。

ブログ:日々更新しているブログ。ここで下書きを書くとともに保存もここでしている。

プログラミング:自分の手で書いたものを保存。

下書き:あまりまだ考えがまとまっていないけど、キーワードだけをポツポツ列挙したり、あとは検索キーワードで、後日もっと後ろの方まで検索を見てみたい、検索ワードの組み合わせの覚書などを書いている。

各種テンプレート:主にTeXやXHTMLだが、最低限必ず書かなければいけないコードであるとか、特定の状況で使えるコードのストック。
しばらく使わないと書き方やコンパイルの方法すら忘れていることがあったので、最低限のことは本を引き出さなくても書けるようにしている。


思い出のメール:ガラケのときに保存しておいた、削除できないメール。まだガラケに少し残っているけど、なかなか書き起こす気力が起きない。

重要書類:契約書とか取扱説明書とか。とっておきたい重要な書類だけど、普段はあまり使わない書類など。

情報科学:情報科学に対する記事とかをストック。どの辺までが情報科学の区切りなのかは曖昧。Webアプリとかもこのへんに入れている気がする。

情報科学(論文):情報科学の論文

心理学:同様
心理学(論文):同様

数学:同様
数学(論文):同様

哲学:同様
哲学(論文):同様

脳科学
脳科学(論文):同様

調べたもの:上記以外で、特に上記の分野として調べたわけではないけども、調べた内容全般。とりあえずWebクリップをしてここに放りこんでおいてあとから必要があれば分類する感じ。

読書記録:Bookeverを使って読んだ本の記録。



こんな感じで分類しています。

とは書いたものの、まだあまりノート数が少ないノートブックもあったりします。




タグの方も結構使っていて、こちらは特に分類などは気にせず、ノートブックの内容に合わせて、どんどん気軽に振っています。

なので、数としてはタグの方が多いかもしれないですね。

自分的にこういう使い方はいいなと感じているのは、

メルマガのノートブックとSample-codeのノートブック、それとファッションのノートブック。


あとWebクリッパーを使っていたり、googleで検索をするときにEvernoteにも検索がはしるようにしていたりもします。


2014年2月25日火曜日

三色ボールペン

お気に入りのペンがある。

自分は、PILOT製のG-knockというゲルインキのペンをいつも使っていて、買うときは5本程をまとめて購入する。


書くときに抵抗がないし、文字が映えてはっきり書ける。それに、インクの出が悪くなることもあまりない。

極稀にペン先が壊れる?ことがあるが、稀なので上に書いた三つのメリットで十分に相殺される。



コンビニなどで売っているごく普通のボールペンだと、書くのにとても疲れる。それはインクの出がゲルインキに比べたらスムーズではないということにもよると思うが。

またシャープペンだと、文字が薄く、紙の色に埋もれてしまい、ぱっと見でなにが書いてあるのか判別できない。
それにこすれて劣化が激しいような気がする。



でいろいろ試すうちに、安いという魅力もあり、ゲルインキのボールペンに落ち着いた。



「三色ボールペンで読む日本語」に影響され、三色ボールペンを使ったこともある。


一時期は三色ボールペンを使い、本を購入しては線を引きまくっていた。

だが、基本的に専門書など値段が高い本を読むことが多く、線を引くために購入するといったことも懐の都合で難しくもなってきたので、次第に線を引くことへのハードルがあがった。

百歩譲って、市販されている専門書に線を引くことはできたとして、希少本はどうだろうか。

希少本を手に入れたとしても、とても線を引くことはできない。そういう場合にはむしろ線を引かないで大切に扱うことも本への愛情の形だと思う。

そんな意見をどこかで耳にし、共感した。


また三色ボールペン方式では、多分赤青緑のうち、青が一番早く減ると思う。

当時三色ボールペンを使っていたときは、明らかに青だけ減りが早かった。

そうすると、三色ボールペンのうち一色だけインクを変えるというのは、面倒くさい感じもするので、そういうこともあり単色のボールペンを使うようになっていった。



しかし、最近また三色ボールペン方式を再開してみようかと思っている。

経済的にも余裕が出てきたので、文庫や新書数冊程度なら気軽に買える。

やはり、自分が少し掘り下げて知識を得たいときは、線を引いた書物をそばに置いておくのもいいと思ったのだ。

図書館などで大量に本を読みあさるのもいいが、手元に置いておき、すぐに確認できるようにもしておきたい。

焦り

28日しかないので、如月も師走並みに過ぎるのが早い。

2014年になって、まだ2カ月だというのに、もう2カ月かという気がして早くもあせり始める。

3月初旬にある奈良先端科学技術大学院大学の受験も目前にせまり、受験に向けて、そして10月に向けてのスケジュールをどれくらいこなせたか振り返ってみた。

愕然とした。

数学の勉強がほぼ手つかず。

いや、大学大学院で散々やったから多分、なにもしなくても解けるだろうけどさ。

個人的には、数3・Cの勉強をあまり基礎をやらず我流でやってしまったので、正直パターンを見尽くしたというほどはやっていない。

そういう意味で、大学教養レベルの数学の復習も兼ねて勉強するはずだった。

が、問題集に一通り目を通して、やっぱり基礎レベルは問題ないよねということを再確認する程度しかできなかった。

本当は基礎レベルは盤石なレベルまでもっていくつもりだったのに。

とりあえず受験はなんとかなるだろうけど、応用をやる前に基礎を盤石にしたいので、もう一度期間を区切って、リトライしようと思う。

ただ、上に書いたようなことで反省は必要だけども、着実に歩めていることもある。

ブログなんか厳密に毎日ではないけれど、自分にしては更新できていると思うし、英語の勉強もTOEFLが終わったあとでもモチベーションを維持し練習できている。

まあ、前進はしていると思うので、前向きに考えようと思う。

2014年2月23日日曜日

丸暗記

先日TOEFLを受験した際の反省を踏まえ、最近英語の音読を始めた。

以前のエントリーにも書いたが、自分はTOEFLTEST 必須英単語5600を使っているので、そこに掲載されている文章を少なくとも一日一回、できれば一テーマ一日で終わらせられるように継続している。 

一テーマ一日で完了させるというのはなかなか難しいが、闇雲に急ぐで進めることが目的ではないので、そこは達成できなくてもあまり気にしていない。

音読の必要性

音読の必要性はTOEFLを受験する前、いやそれよりももっと以前から感じていた。

しかし、周りの目を気にしていてなかなかできなかった。

というのも、今自分は実家暮らしをしていて、自分の部屋が弟と共同の部屋である。弟がいないときは、部屋にこもって周りを気にせず、ブツブツと音読できるからいいものの、弟がいるときは、なにか恥ずかしくて音読ができなかった。

以前札幌で一人暮らしをしていたときは、思いっきりブツブツ声を出していたのだが。その頃がうらやましい。

やはり、弟がいるかいないかというような環境に左右される状態は不安定であまりよろしくないので、なんとかできないものかと考えていた。

そして最近考えたのが、仕事への行き帰りの途中に近くの公園で音読をするという方法だ。

仕事への行き帰りなので朝や夜になる。
真冬であればかなり寒いので、それも難しいと思っていたが、最近は段々暖かくなってきたので、できるようになってきた。

単語帳であればそんなにかさばるものでもないので、普段から持ち歩き、行き帰りに公園に数十分寄り道をして音読するという日課になった。

頭に入ってくれば、単語帳を見なくても暗唱できるようになってくるので、移動時間など隙間の時間があれば、口に出すようにしている。

なにを優先するかにも依ってくると思うが、ある条件の下で自分がやりたいことを実行するのか、と考えることは大切なことだと思った。

それが、私の場合は人目を気にしてしまうし、家族にまだ本気で勉強しているのを、なにかさめた目でみられるのも嫌だったというのが、一番優先順位が高いことだった。

丸暗記

それにしても丸暗記するという作業が最近減っていたような気がする。

以前ビオラをバリバリに弾いていた頃は、曲などを弾く際に、譜面を見なくても暗譜でも弾ける程度まで練習していた。

実際本番のときに譜面をみるのかみないのかは別としても、練習のときに暗譜でも弾ける程度まで達していないと、とても本番の時には演奏できないからだ。

極端なことを言えば、頭で考えながら弾いているようでは演奏はできない。

理屈ではなく、体に刷りこませて体が自然に反応をするようにしておかなければ、とてもおぼつかない。

とはいえ、実際は表現方法や周りとのアンサンブルなどの要素が絡んでくるために、考えながら演奏はしているのだが、そういった重要な部分に注意のリソースを充てることができるように、単に譜面を正確になぞるといった基礎的な事に無駄な注意を払わなくてもいいように、練習や訓練が必要なのだが。

当時まだ私は学生で、数学を専攻していた。

数学という分析的な思考とは対照的に、理屈抜きに体に覚え込ませるという過程は新鮮だった記憶がある。

車輪の両輪のような役割を果たしていた。

語学学習と楽器練習との類似

語学の学習も似ているのではないだろうか。

単語や文法なども大切ではあるが、ある程度基本的なことが理解できるようになってからは、理屈を抜きにしてひたすら英語を自分の内側に蓄えていくことが重要なように思う。

実際に話をする場合には、単語の意味や文法や発音などを細かく考えているわけではない。

いや、考えている人いるかも知れないし、考えてもそれはそれでいいのかもしれないが、リソースの無駄遣いをしているように思う。

理屈ではなく、何度もしつこくしつこく、いろんな角度から体に覚えこませる。

そして理屈がわからなくても、なんとなく文法的に正しいか正しくないか、自然な表現であるかそうでないかといったことが感覚的にわかるようになってくる。

もちろん、理屈の上でもわかるに越したことはない。

それは読み書きをするだけの場合でもある程度は当てはまるのではないかと思う。

表現の仕方や伝える内容など気を使うところは他にもたくさんあるので、基礎的なところにリソースを使うのはもったいない。

さいごに

今のところ、同様の原理が働いていると思っているのは上で書いた二つのみだが、他にもあるのかもしれない。

ちなみに数学は似ている部分もあるが少し違うと思っている。プログラミング言語の習得なんかは近いかもしれない。

なにか他にもあれば教えて頂けるとありがたい。

今までは音読をする機会が十分満足にとれなかったので挑戦を控えていたが、その機会を確保することができそうになったので、ドイツ語やフランス語などにも挑戦をしたいと考えている。

Pairs

昨日は土日にしては珍しく8時頃には起きて活動していた。

お昼ぐらいにクリーンングに出していたズボンを回収しにいった。

ドライクリーニングが必要なズボンを3本もっていたのだが、クリーニングにださずしばらく放置して、最近は安物のズボンを使い回していたが、それもいっともないと思ったので、クリーニングに出してきた。

そんなことをしているうちに15時頃になってしまった。

もっと早い時間に外出して図書館にこもるつもりだったのに。

15時頃からという遅い時間であるが図書館で出かけた。

夜に新宿で用事で用事があることもあり、ついでなので新宿区中央図書館に行ってみた。

数年前に移転をしたのだが移転後は初めて行く。

場所もよくわからなかったのでそれを探す意味もあった。

いざ行ってみると、場所がわかりずらい。

到着までに2時間かかってしまった。移転前のほうがわかりやすかった。

それに図書館内も移転前の方が広々としていた印象があるし、移転後はなにか一時的な施設という内装が否めない。

綺麗ではあるが、非常に簡素な内装だったのだ。

その後、21時からは人と約束。

FacebookのPairsで知り合った女性と食事の約束があったのだ。

こういう出会い系サイトにいる女性はサクラが多く、実際に対面することはできないという噂もチラホラを耳にしていた。

何度かアプリの上でメッセージを交わし、途中からはLINEでの会話に変わった。

PairsそのものがFacebookアカウントをベースにしていて、LINE上での会話ができたし、話している内容がとてもリアリティのある内容だったので、サクラではないだろうとは思いつつも半信半疑ではあった。

ただ、LINEはもちろんであるが、Pairs上でもメッセージの交換は無料なので、特別出会えなかったからといって不利益を被ることはない。

なので、あえればラッキーというぐらいの、あまり期待をせずに臨んだ。

結果はというと、なんと会うことができた。

実際にあってみると、美人で素敵な方であった。 

21時からという遅めの時間からではあったので、2時間ほど食事をしてお開き。

普段とは違う方とお話できて、ドキドキもあり、刺激的な一日だった。

2014年2月19日水曜日

芸術と文化の違い

佐村河内さんの騒ぎの件で、読売新聞に三人の識者が投稿していた。うち二人の文章を抜粋する。
そもそも西洋音楽は、長い歴史と伝統の上に成立したとても洗練された芸術様式の一つだ。そのエッセンスは「物語」ではなく「音」そのものを一つ一つ積み上げることによって音楽を語るところにある。(細川俊夫)
昨年発覚した食品偽装問題でも感じたことだが、私たちは自らの感性で食べ物や音楽を味わい、その良しあしを判断する能力が衰えてきていると思う。自分で判断できないから、わかりやすい感動にすがってしまう。そして、だまされたとわかると、自分を棚に上げて一方的に非難する。本当にそれでいいのだろうか。
「交響曲第一番」の作者は耳の聞こえる別の作曲家だった。その事実が「曲そのもの」の価値をそれほどまでにおとしめるのだとしたら、私たちはそもそも「曲そのもの」を聴いていなかったことになる。ただ泣ける音楽がほしかっただけかもしれない。そこに最大の反省点があると思う。(岡田暁生)
とても共感できて、すかっとした。
しかし一方で、自分としては少し消化しきれないものもある。
クラシック音楽が芸術として確立している。これについては自分を含め、大抵の人は合意してくれるだろう。
その他の音楽、例えばPopsを初めとして、民族音楽や雅楽などは芸術とは言わないのだろうか。芸術と呼ぶかどうかはともかくとしても、素晴らしいものであることに変わりはないのだが。
それぞれの音楽は扱われ方が違うように思う。
クラシック音楽では主に「曲そのもの」または、作者によって曲をみる。一方でPopsでは演奏者(歌手)によってみられることが多い。また、そもそも作者不明の曲もあったりもする。
Popsをどの位置に置くかというのはわからないが、民族音楽など作曲者不明のようなものは、文化と呼ぶほうが適当な気がしてならない。
そういう視点に切り替えをしていくと、Popsも芸術というより文化なのだという見方もできるような気がする。
個人的にはPopsというのはあまり好きではない。クラシック音楽だけを特別扱いするのではなく、その他の音楽と同様に芸術としてみようとは、気をつけてはいるが、やはりPopsはあまり好きになれない。もちろん中には素晴らしい曲もあるのだが。
作曲者が表にでることはあまりなく、どちらかというと演奏者(歌手)が表にでている。
歌手に作曲者が提供をしているという構図であって、一見したところでは歌手(演奏者)のほうが立場が上に見える。
そういう意味でアウトソーシングが行われているので、曲自体を制作した人の哲学というのが間接的で見えにくい。
だが、芸術ではなくて文化としてみれば、少し親しみもわいてくる。
そういうような思考を巡らせていくと、芸術と文化の違いなどがよくわからなくなってくる。
ながながと書いたがこのエントリーで結論はでない。もう少し掘り下げて考えてみる必要があるようだ。

2014年2月18日火曜日

感受性

単調な日々を過ごすのはつらい。毎日、朝起きて仕事に行き、特に変わった事があるわけでもなく、夜には帰ってくる。

しかしこれが普通のことであり、こういう変化のない日常に耐えることが社会人なのかなとふと思ったりもする。

こんな考え方は未熟かもしれないが。これが、自分の仕事に誇りをもち、日々充実過ごしていれば話しは違ってくるのだろう。

ブログに書く話題も探しつらくなってきたことや、退屈な日常に潤いをもたらすためもあり、なんでもない日常から感じたことを書いてみようと思った。

ところが、一時期はただ歩いているだけでもなにか感じることもあったのだが、最近は歩いていてもなにも感じない。

例えば、家と最寄駅までの道のりもただの作業になってしまっている。




感受性という言葉で何を意味するのかはわからないが、自分には感受性がないなと思う。




昔は、感受性という言葉の意味を勝手に想像し、理想化していた。

当時の自分自身、はっきりと自分なりの定義をもっていたわけではないので、今の自分でもはっきりしたことは書けない。

それでもあえて書いてみると、いわゆる文学作品に対して造詣が深く、登場人物の気持ちを想像できたり、日常を擬人化して表現できる能力があることを感受性がある、と思っていたような気がする。




今でも、感受性という言葉の意味するところはいまいちわかっていない。

しかし、昔のほど限定された意味では考えてはいない。また、感受性が重要になってくるのは最後の部分だと思っている。

感受性と理性は背反するものではない。理性を駆使して技術を高めていき、それが十分に飽和し最後の決め手になる段階でやっと感受性の要素が必要になってくるのだと思う。

まだまだ、感受性や感性、個性といったものが重要な要素になる段階まで至ってはいない。

日々努力をして、できて当たり前の事を増やし、個性を表現できる段階まで達したい。

その段階まで達したときには、おそらく自分の職種はなにかという問いは意味をなさなくなるだろう。