2014年1月14日火曜日

閉鎖空間・隔離空間の魅力

今日はあまり勉強がはかどらなかった。TOEFLも近いのに。
いろいろ無駄な行動が多かったな。それに、集中力が続いた時間が短かった。その原因はだいたい推測できるけど。反省反省。



さて、今日は昨日の続き。予告編で気になった映画がもう一つあるという話。

「奴隷区 僕と23人の奴隷」という映画だ。







タイトルから想像する限りではあるが、どこか閉鎖空間を舞台にした話なのだと思う。

このような閉鎖空間であるとか、隔離空間を舞台にした話は興味がある。

自分なりにそういったカテゴリーに分類される話としては、ドラマなども含めると例えば「僕らの勇気-未満都市-」「バトルロワイヤル」「ファニーゲーム」「es」「20世紀少年」などがある。忘れてるだけで他にもあるかも。

少しいくつか補足を加えさせてもらうと、「僕らの勇気-未満都市」昔やっていたkinki-kidsが出ていたドラマであるが、残念ながらDVDは出ていないらしい。TSUTAYAで探してみたが、ビデオのみの模様。

また、「20世紀少年」というのは、物理的な空間あるいは領域といった意味では閉鎖的でも隔離的でもない。しかし、正義と悪が混同されている世界で、通常の意味での正義の側の人間からすれば精神的には追いつめられて閉鎖的な状況ではあると思う。それにさらに絶望感も加わっているのだが。

最後、「ファニーゲーム」というのはミヒャエル・ハネケ監督の作品だが、この監督の作品として「ピアニスト」「白いリボン」をみたが、それだけ観ただけでも、頭イカれてる監督だというのがわかる。最大限の褒め言葉である。他の作品もいづれ見たい。


さて話をもとに戻すと、これらに興味があるのは、いわゆるスプラッタ映画やホラー映画とは違い、ある種リアリティを持っており、その中で人間の本性、例えば残酷さや理不尽さをあぶり出しているからだと思う。

スプラッター映画はあれはあれで刺激的ではあるが、リアリティはあまり感じない。ホラー映画も同様である。観ていて引き込まれるものはあるが、リアリティがあるかというとそれはまた別問題である。

一方で、閉鎖空間あるいは隔離空間が舞台というのは、それらよりかはリアリティがあるように思う。

もし、閉鎖空間や隔離空間でなにか本当におぞましい事が起こっていた、あるいは起きているとしようではないか。しかし、そんなものはあったとしても、極秘にされていて自分達は事実を知ることができない。

また、舞台設定としてはかなり特殊ではあるが、描かれていること自体は極限状態での人間に心理である。極限状態における心の動きをみることによって、自分の中に普段は意識してはいないがあるかもしれない残酷さや理不尽さを投影するからこそ魅かれるのかもしれない。


本当にこんなことがあったら恐ろしいけどありえなくはないという微妙なリアリティ、それと極限状態で描かれる心理が自分たちの深層心理の投影、この二つがあるからなんとなく観たくなってしまうのではなかろうか。


2014年1月13日月曜日

「魔女の宅急便」に想うもの

前回は、トリックを観てきたことについて記事を書いたが、予告編で宣伝されていた中にも、気になるものがあったので触れようと思う。

二つあって、一つは「魔女の宅急便」。実写化されるらしい。




「魔女の宅急便」は好きで、おそらく10回以上は観ている気がする。好きだからこそ、あえて実写化しないでほしかった。
そういう意味で非常にショックである。夢を壊さないでほしい。なんでもかんでも実写化すればよいというものでもないと思う。


さて、今回はなぜ「魔女の宅急便」が好きなのかということだ。

自分が共感するのは、全く知らない町で生活をし、最初は異邦人であったが、その土地の人とのコミュニケーションの中で徐々に信頼を築き、居場所を獲得していく、という過程を描いているところである。

それは単に歓迎されているということとは違うと思う。歓迎をする、ということはそれはある意味で外部の人間だと認識をしていることになる。そうではなくて、歓迎はもちろんしているのだが、いろんな感情を含めてそこにいるのが当たり前、自然な状態になっているというのが、居場所を獲得したということである。

もう少し言葉を変えてみれば、歓迎されている、というのはある意味ではいなくてもルーチンを回すには問題ではないということではないだろうか。
居場所を獲得するというのは、他人との関係が形成されるということだと思う。


上記のような、テリトリーの獲得の描写がなぜ好きなのかというのはあまり考えたことがなかった。

この記事を書くにあたり考えてみた。

一度外部に出て、評価が全くのゼロの状態から、自分の居場所を獲得していくなかで自分の存在価値を再認識できるからではないだろうか。

その土地の人と関係が築かれて、さらにその土地の土地勘なども獲得し、自分自身でもそこにいることが当たり前だと感じられるようになってくると安心するのである。





もう一つ気になった作品というのは「奴隷区 僕と23人の奴隷」であるが、それは次回。

トリック(劇場版)を観てきました!

昨日になりますが、トリックを観てきました!



ちなみに写っているのは自分ではありません。友人です。

ネタばれはしないようにしますが、相変わらず小ネタをちょこちょこ挟んできて、面白かったです。いちいち笑える!
映画館のお客さんもみんなわらってたし笑)

最後の結末ですが、個人的にああいう結末は好きです。



昨日は16:00ぐらいからの回をみる予定でした。まあ私は、親には言っていませんが、仕事をしているという体になっているので、8:00くらいには家をでて映画まで時間をつぶしました。とはいえブログの更新などなどやることはあるので、カフェなどを梯子して時間をつぶしてました。

さていよいよ待ち合わせの時間が迫ってきて、待ち合わせ場所に行くも一向にこない。待ち合わせ時間をずいぶん過ぎてもこないので、LINEで何度か呼びかけると、寝坊したとのこと。なにー!結局次の回をみることになりました。2時間ほどさらに時間が空いてしまったので、電源のあるカフェを求めて新宿をふらつくもどこも満席。結局紀伊国屋で、適当に本を立ち読みしてました。


映画が終わったのが21:00前だったのですが、それから牛角へ焼き肉を食べにいきました。日付が変わるころまで飲んでお開きとなりました。

映画をみるまでに、ずいぶん歩き回ったので少し疲れましたが、映画もみて焼き肉も食べて、と珍しく充実した一日でした。




2014年1月12日日曜日

速く、正確に、そして無意識的に

今日もTOEFLの勉強をした。今日はCDも聞いて耳からも学習してみた。

単語の記憶があいまいだったころは、音としては認識できるものの、どんな意味だっけといちいち立ち止まってしまい、その間に音声はどんどん先へ進んでしまい、結局要点を聞き逃す、みたいなパターンが多かった。しかし、今では結構難しい単語でもあまり考えることなく聞いたまま理解できるようになってきた。そういう意味では、着実に前進をしていることを実感できてよかった。

勉強をしながら、自分がイメージしている熟達という状態が、具体的にはどういう状態なのか、頭を駆け巡っていた。
だが結果として、おそらくそれは当り前だろうという定義にたどりついてしまった。

今に気づいたことではないが、自分は熟達していく過程は好きだし、何かに熟達している、いわゆる職人といわれるような人達も尊敬してしまう。
少し具体的にいえば、音楽家、アスリート、科学者など、固有名詞もだすのであれば、上記でいうような職人というイメージと少しずれてくるかもしれないが、天野篤、福島孝徳、イチロー、井畑弘和、工藤公康、石井裕などなど。もちろんこの他にもとてもすごい人達はいらっしゃるでしょうが、メディアなどで取り上げられて感銘を受けたのがこの人達。
とてつもない努力を継続していて、努力することも継続することも素晴らしい上に、とても謙虚に鍛練をしている。


熟達しているというのは、「速く、正確に、無意識的に」処理ができる状態になっていることだと思っている。

楽器の練習や語学の学習、あるいはスポーツの練習で考えるのがわかりやすいが、例えばいちいちどのように体のどの部分をどのように動かすかなんて考えていたら、上達はしない。練習をすることにより、より速くより正確に、そして考えなくても身体が反応するレベルまで達している状態がよい。
もっと言えば、考えるより前に身体が反応はしているのだが、それに対しての理屈や説明を求められたら、速やかに対応できるというのが望ましい。
無意識的でも意識的にもできているという状態。


では、なぜその状態になること=職人になることに憧れるかについて考えてみたところ、それがその人の努力を反映しているからではないかという結論にたどりついた。

何を処理するかにもよるが、おそらく頭の回転が速い人であれば、速く正確に処理することはわけがないと思う。しかしそれに考えなくてもということも加わってくると、少し話しが違ってくると思う。

何度も何度も繰り返すことによって、まさに体に刻み込んでいくというのは、時間がかかることであるし努力が必要である。

頭の回転がお世辞にも早いとは言えないので、努力のあとがその人自身のスキルという形で表現されている、職人に憧れるのだと思う。


ちなみに、「速く、正確に」というのは、自分のビオラの先生にくどく言われた言葉。
それにさらに「無意識的に」という言葉を加えて、目標としている。


最後に、ちょっと本文とは関係ないけど、好きな名言を。

「いつも通りのことをいつも通りにやったので、おのずと結果もいつも通りになる」(天野篤、天皇陛下手術後の会見で)

「人の2倍働き、3倍の結果を出す」(石井裕のモットー)

「われわれは天才ではありませんから、基本的に、考えつくほとんどのアイデアはゴミです。ほとんどCかDでたまにBがあって、Bを磨けばAになるかもしれない」(石井裕)

「出すぎた杭は打たれない」(石井裕)

「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへいくただ一つの道だと思っています」(イチロー)

2014年1月11日土曜日

音読

今日は少しゆっくり起床しそのあとはTOEFLの試験も近いので英語の勉強をしていた。

少々遅れ気味だったLang-8にアップする文章を訳して、その後にTOFLEの勉強。毎日こうしてアップしているブログの内容と同じ内容を英語で書いている。

今日は音読をしてみた。音読をしたいとは常々思っているのだが、恥ずかしくてなかなかできない。自分が使用している部屋が弟と相部屋のため、弟がいるときは音読はしたくない。かといって外出先でぶつぶつ音読するのも、ただの変人である。なので、部屋に自分しかいないときを狙ってぶつぶつ音読をしている。

いつもは文章の中で覚えるのが中心だが、音読をして自分で実際に発音をし、五感をなるべく使い、耳からも単語を覚えるのは、効果があると思っている。

音読をしながらイメージをすることで、すぐに意味がイメージできない単語があることで、覚えきれていない単語をすぐに発見できる。また、何度も音読することで、意味をとるスピードがあがるし、口や耳が単語を覚えてくれる。さらに言えば、TOEFLの文章は難解な文章だが、そのような文章でもどのように息継ぎをするかといったようなリズム感のようなものも体得すくことができる。

また、最近やっているのは、文章中でチェックした単語だけを別に抜き出し(これは電子辞書の単語帳に登録してある)、文章をみず、文章とは無関係に単語だけをみて意味を答えるといった練習もしている。

文脈で覚えるのも大切だが、それとは独立に単語だけをみて意味をパッと言えるようにする。

そういった、いろんな角度から記憶を補強していくと忘れにくいのではないだろうか。

英語に限らないが、最低限覚えておかなければいけない事項や仕事にならないようなことは、イメージとしてはフラッシュ暗算であるとか、あるいは海外ドラマのLie to me でライトマン博士が100人ぐらいの顔写真の中から特定の微表情だけを探しだす作業をやっていたときのような瞬間的にパッ、パッと処理していくような軽快さで判断できるぐらいのレベルまで持って行っていかなかればいけないと思う。

イメージとしてはそういう感じ。

2014年1月10日金曜日

ドグラ・マグラ


ドグラ・マグラの草稿が発見されたらしい。

この本は学生時代に一度読んだことがあるが、結局よくわからず。

題名が怪しい本ということでなんとなく聞いたことがあり、唐突に読みたくなり読んだのだ。

題名も怪しいが、表紙からして見るからに怪しさを醸し出している。


題名や表紙の怪しさに加え、昔の本だからということもあるが、カタカナ混じりで書かれていることもより怪しさを引き立てている。

全体としての内容も異常であるが、構成が劇中劇ならぬ作中作の形式にもなっているので、訳がわからない。そんな記憶しかない。

日本三大奇書の一つと言われているらしいが、その名にふさわしい意味不明な本である。

夢野久作の作品を全部読んだわけではないが、いくつか読んでみるとこの人の作風は一人称で独白の形で書かれていることが多いということだ。

手元に国語便覧があるので眺めてみるとそういうことが書いてあり、これが夢野久作の特徴らしい。

こういう形式は最近の本ではあまりないので、慣れないと少し独特に感じるだろう。

2014年1月9日木曜日

恩師という言葉について

サッカーの本田圭祐がACミランに入団したというニュースが流れている。

こういうニュースがあると、恩師へのインタビューなどが決まって放送される。

ふと自分にとっての恩師とは誰だろうかと考えてみた。

そもそもとしてどのような人を恩師というのかが未だによくわからない。自分にとって重要な意味をもっている人だろうか。

自分が今まで生きてきた中で重要な役割を果たした人は何人もいる。そのどれもが同じくらい重要なので、その中から一人を選ぶというのは難しい。
そういう意味では、恩師という特別な一人を選ぶことはできないし、一方でどの人も重要な恩師である。

また恩師という事で、誰か特別な誰かを指すのであれば、それ以外の人は重要であるが恩師ではないということで、それはそれで失礼な気もしてくる。
やはりどの人も自分にとっては重要な存在であったからだ。

恩師という言葉の定義についてはともかくとしても、やはり自分にとっては重要な役割を果たした人物というのは何人かいる。

まずは中学校の頃の塾の数学の先生だ。自分が数学に興味をもつきっかけを与えてくれた重要な存在だ。その先生は当時はまだ大学院で数学を専攻している学生だった気がする。しかし私にとって先生であることにはかわりない。
その先生は、数学の問題に対して、エレガントな解法から、あえて複雑な解法までさまざまなアプローチからの解法を紹介してくれた。論理的でさえあれば、どんなに自由に発想をしてもよい、むしろいかにユニークな発想をして問題をエレガントに解くかといったことが非常に楽しかった。ただ、「論理的でさえあれば」という部分は当時は表面的にしか理解していなかったが。
また、数学的にデリケートで先人がさんざん議論してきたような根本的な問題についてもエピソードなどを紹介してくれ、普段直観的に当たり前と思っていることにすら、いちいち疑問をもち議論を重ねているという、ある種の滑稽さも興味をひいた。
受験勉強についてはもちろん、そうでないことについてもいちいち先生に質問をしていたりもした。

そんなこともあってか、卒業を祝う会で、それぞれの先生が印象に残った生徒に先生賞という賞をくれるのだが、その先生から一番数学に興味をもったということで賞をもらったのは印象深い。

そういう訳で、数学に興味をもつことに影響を与えたという意味で重要な存在だ。


次が、高校のときの数学の先生だ。

当時私はお世辞にも数学が得意とは言い難かったが、数学のデリケートな部分の問題について授業時間外でも積極的に質問をぶつけていた。その場で即答はできないこともあり、回答を用意してくれてきたり、職員室の先生も巻き込んで相談してくれたようである。
とりたててエピソードのようなものはないのだが、「そういうデリケートなことをやりたいのであれば数学科へ進学すれば」と背中をおしてくれたということが重要である。もっともその頃には、すでにいろいろ調べ数学科へ進学することは決めていたのだが。


最後は数学とは関係ないのだが、高校大学時代と習っていたヴィオラの先生である。

高校入学時、音楽経験が全くないのにも関わらず、オーケストラ部に入部した。その部活はプロのトレーナーなどはいなく指導などは先輩やOBなどが行っていた。少なからず音楽の経験があり、しかも器用な仲間と比べて危機感を感じていた自分はレッスンをつけることにした。

レッスン生の年齢は幅広く、子供から大人までおり、なにか簡単な曲でもいいから弾きたいという程度の人もいたが、そんな中で音階、ボーイング、エチュードを中心にかなり基礎的なことをみっちりやって頂いた。

基礎を固めて頂いたというのも重要だが、練習の教材や練習の方法を教えてもらったということで、そういったノウハウは廃るものではないものを教えてもらったので、重要な時期だったと思っている。


冒頭に述べたように重要な人物は他にもいるが、その中で特に重要な人物を上げるとすれば、今の自分の形成にかかわっているという意味で以上の三人が恩師だと思っている。