2014年8月12日火曜日

集団的自衛権

今話題の集団的自衛権について書いてみようと思う。

ホットでデリケートな話題だけに、炎上しないか心配だ。

そもそも炎上をするほど人の目に留まるのかどうかがわからないが。



先日、Facebookで憲法の解釈変更による集団的自衛権の容認の記事がシェアされていて、コメントに賛否両論いろいろな意見が投稿されていた。


賛成意見にも反対意見にもどちらにももっともだと思うところがある。


自分も結局どうすればいいのかわからないままではあるが、思うところがあったので書いてみようと思っていた。


デリケートな話題なので、どういう議論がされてきたのかや背景的な話題、賛成意見や反対意見の根底に流れる哲学などきちんと調べてから書こうと思ったのだが、調べていると切りがない。


なので、このテーマに関して論点はいくつかあるとは思うが、全てには触れず、率直に思っていることを書こうと思う。


政治的な話題には詳しくはないので、詳しい人からみたら考えが浅はかだし、多分前提知識が欠けていたりしてトンチンカンな議論をしているかもしれない。


その辺は弁解のしようがないので、素直に受け止めるしかない。





集団的自衛権の行使容認賛成の人の主張の一つは(他にもあるかもしれない)、隣の国が武力をもっていて脅威になりつつあるのに、自分の国は丸腰でいいのか、ということ。
それでは、守るべき平和も守れないのではということだと思う。



一方で、反対の人の主張の一つは、平和主義国として少しでも戦争への道を進みかねないようなことはすべきではないということ。

よく引用されるガンジーの非暴力、非武装を貫き平和主義を貫きなさいと。



非暴力非武装で平和が維持できるのならそれが一番いいのは明らかなわけです。

そんなことはわかってはいるけど、現実にはなかなかうまく事が運ばないから困っている。
わかってはいるから、自分なんかよりもよっぽど頭のいい人たちが昔から知恵を絞っているのにも関わらず、実現できていないということはかなりの難問だ。




賛成派の人達はよく家族のたとえを引き合いにだす。

「あなたの隣人が凶器をもってあなたの家族に危害を加えようとしているのに、あなたたちの家族は全員丸腰で呑気に構えて生活するのですか」と。

自分としては、わかるようなわからないような。

言わんとしてることはわかるが、これを国家同士のスケールに一般化できるかどうかというのはそれほど自明ではない気がする。

なぜ一般化できない気がするのかというのは、自分でもまだよくわかっていないが。

今回の例に限らないけど、比喩やアナラジーで説明をするということはよくあるが、それが適切な適用になっているかどうかというのは慎重に検討しなければならないと思う。

あくまでも比喩やアナラジーは理解の補助でしかないのに、本来理解すべき対象と立場が逆転して、比喩やアナラジーの枠組みに押し込めようとしているのではないか、と思う事がある。

それをやりだすと理解できたつもりにはなってしまうので、危険だなと思う。



また一方で、思想の多様性という面から考えてみる。

反対派の人達はガンジーの非暴力主義が根底の思想に流れているのだろう。

そういう意味で言えばこれも一つの思想であって、それ以外の思想があることも不思議ではない。

仮に反対派の人達の意見を汲み非暴力非武装を貫いたとする。

それは、賛成派の人達の思想を排除しているということにはならないか。



だから結局結論はでないままで、もやもやした結びになるが、どちらの意見も尊重してどちらの立場の人も納得できるような案があれば一番望ましい。

なかなか難しいところではあるが。

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