ヒュームという哲学者がいて、「因果律は存在しない」というようなことを言っています。
出来事Aに続いて、出来事Bが起こったとしても、AのあとにBが起こる必然性はない。
Aが原因でBが結果だと思うのは、人間の心の癖のようなものだ、というようなことを言っています。
僕が読んだ哲学入門書がそうだっただけなのか、あるいは入門書的な本は全てそうなのかわからないですが、参考書にはよく、『「だから」は認識できない』という表現で書かれています。
その表現のせいでわかりにくくなっているのか、そもそものヒュームの言わんとしてることが難しいのかわからなかったのですが、最近理解のヒントになるようなたとえ話を思いつきました。
割とわかりやすい例もたくさんあることはあると思います。パッと思いついたのは、大気現象の例とか。
詳しいことは僕もわかりませんが、海面温度が上昇して、エルニーニョ現象が発生して、どっかの気温が上がる、というような説明。
気象現象の専門家ではないので、この例の正確な事実の部分は知りませんが、研究されてある程度妥当な説明というのもされているのでしょう。
でも、僕の素朴な感覚としては、人間が直接一連の過程を肉眼で確かめたわけではなく、観測によるデータと推論によってなされた説明、先の例の現象の必然性が絶対あるとは言えないと思うわけです。
こういう例であれば、ヒュームの言わんとすることも、なんとなくわかるわけです。
でも、逆に日常にあるようなシンプルな例の方が理解しにくい気がします。
窓にボールを投げて、当たったから窓が割れた、というような例を考えてみましょう。
状況にもよるでしょうが、特殊な状況は無視して、
普通に考えれば、一連の過程を人間の肉眼で確認できるんだから、ボールが当たったことと窓が割れたことには当然因果関係あるでしょ、と思うわけです。
こういう例に対しても、因果の必然性はないと言えるのか。
それに対してこんな例を考えてみる。
ボールを投げてから、窓にあたり、割れるまでの一連の過程を、カメラの連写
機能を使って撮影する。
スマホなどで撮影することをイメージ頂ければよいと思います。というか、動画として撮影してコマ送りにするということでもいいと思いますが。
窓に当たって、その後割れる瞬間のコマから、後日別の日に同じアングルで撮影したコマに差し替える。
そうして作った動画を、人に見せてみると「ボールが窓に当たったから割れた」と思うと思います。
でも実際は、別の日のコマをつなげているわけなので、因果はないですよね。
こういう例が正しい理解の仕方かわかりませんが、こういうことを言っているのでしょうか。
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