2020年9月14日月曜日

美術の授業

 今から思えば、子供の頃、自分は正解を求めすぎな人間だったような気がする。


中学校時代の美術の授業まで遡る。


覚えているのは、「メッセージ性のあるポスターをつくろう」という感じの授業だったかと思う。


ポスターというのか、絵というのか、その両方のような課題だった気がする。


例えば、「いじめをやめよう」とか、「絶滅危惧に瀕している動物を守ろう」と「環境破壊を防ごう」とか、そういったメッセージ性を絵で伝えようというものだった。


中学校の授業なので、どういうメッセージにするかということはそれほど重要ではなく、それをどう表現するか、といったことを学ぶような授業だった気がする。


自分は「水を大切に使おう」みたいなメッセージだったと思う。


周りのみんながつぎつぎと作るべきものを決め、作業を進めていくのを、「どうしてそんなに早く正解が見つけられるのだろう」と思いながらみていた。


もう少し正確にいえば、当時も正解が一つではない、とは思っていた。


しかし有限ではあると思っていて、周囲の人が描くテーマを決めていくに従って、「正解が一つとられた」と思っていた。


そんななか、「正解」と思われるテーマを捻り出し、具体的なデッサンのプランを先生に相談しに行っていた。


このときも、そもそも決めたテーマが正解なのか自信がない、さらにそれを表現する手段として自分のアプローチが正解なのかも自信がなかったので、かなりこまめに先生に相談しにいっていた気がする。


あまりにもこまめだったからか、「いや、それでいいからとりあえずやってみなよ」と先生に言われた。


結局悩む時間が増えれば増えるほど、作業にとれる時間も減っていくので、納得のいく出来栄えではなかった。


今思えば、そもそも「正解」なんてない、というか無限にあるのに、「正解」を求めすぎていたような気がする。


それは、もっといえば、自分に自信がなかった、自己肯定感が低かったので、周囲の目を気にしすぎていたからだと思う。


周囲の人から、無難に思われる、あるいは優秀ではなくてもまずまずと思われるところを狙いすぎていたと思う。


いわゆる5教科の成績はよく、それなりに頭はよく、学校でもうまくやっていけていたので、下手な作品をつくることで自分の評価が落ちることを恐れていたのかもしれない。



少し話はそれるが、さらに小学校まで遡っても美術(小学校のときは図工という名前だったが)の授業はあまり好きではなかったかもしれない。


小学校のときも、時間内に課題を完成させることができず、放課後に残って作業しても完成させられず、あとは家でやります、と持ち帰って結局完成させなかったような気がする。



今この年になってみると美術も少し好きになった気がしてる。

美術というか芸術全般が割と好きである。


なにが変わったのかというと、芸術への関わり方は「自分自身が創造すること」だけではない、ということを知ったからではないかと思っている。


一口に芸術といっても、

美術に関しては、絵画、彫刻、版画、漫画その他まだまだ色々、

音楽に関しても、クラシック音楽、民族音楽、雅楽、ジャズ、ポップス、ボカロ、等々、

演劇でも色々。


さらに、それを観賞する、背景を知って考えるという楽しみ方もできる。


そういういろいろな関わり方を知り、「自分自身が創造するだけ」ではないということを学んだからこそ、好きになったような気がする。


そして、「創造する」ということに関してであれば、手段は上記の分野だけではなく、他にもいくらでも手段があるということがわかってきたからだと思う。


自分の好きな数学や、プログラミング、そしてこのブログのように文章をかいたり。




2020年9月7日月曜日

Lie to meが好き

 Lie to meが好きすぎて、多分今までで3周ぐらいはしている気がする。

ティムロスがはまり役!

とか、

ケリーウィリアムズ美人!

とか、それ以外にも自分が好きポイントをあげるときりがないのだが、それはまた別の機会にじっくり語る。

延々と語ってやる!



今回話すのは、自分が好きなタイプの映画やドラマについて。

好みはいろいろあるけど、その中の一つとして、「専門家が活躍する作品」が割と好き。

先ほど挙げた『Lie to me』もそうだし、『科捜研の女』、『Voice』(結構前のドラマかもしれないけど、法医学系のドラマ)、『Dele』、『コードブルー』とか。

特に、自分が好きな理由を表現しているシーンが『コードブルー』のシーズン3の第8話で灰谷先生が子供のレントゲン?をみて「おかしい、なにもない」っていうところ。

あぁいう、訓練をして見える人にしか見えない・判断できないことができるっていうのが憧れる。

決して誰にでもできることではないけど、みる人がみればわかる的な。


そういう意味では『Lie to me』も微表情を読み取る、っていうところでは共通している。

でも、それがファンタジーとかになってしまうのはダメ。あくまで現実ベースで。


そういうことで、専門家が活躍するような作品は好きなのです。

2020年9月6日日曜日

とりこぼしてる課題

 正直、自分は年齢に対して精神年齢が幼いと思う。

いろいろ理由はあると思うが、最近考えていることは、今まで生きてきた中でやり残したまま放置していることがあることが、一つの原因だと思っている。


一つは、跳び箱ができないことだ。

基本的に運動全般は得意ではない。

しかし、自分と同じように運動が得意ではない人でも、大半の人はなんとか克服してできるようになっているであろうことをできていないというのは、一つ心に突っかかっているかもしれない。

もちろん、そもそもとして五体満足ではなく、そもそもの前提にたてない人もいるだろう。

また、社会人にでもなってしまえば、跳び箱の一つできないことぐらい、どうということではない。

だから、自分と同じように跳び箱をできない人を貶めるようなつもりはないが、ただ自分の中では、恥ずかしいこととして認識しているように思う。

で、いつか克服しようと後回しというか保留にしているうちに、精神年齢は当時からさほど変わらず、実年齢だけ増えてしまったという感じがしている。

ちなみに逆上がりはできる。



それと同じ並びでいくと、野球が苦手だ。

正確にいえば、バッターとしてボールを打つとき、向かってくるボールが怖い。


小学生のとき少年野球をやっていた。

ただあまり好きではなかった。

特に、物凄いスピードで迫ってくるボールが怖かった。

例えば、今挙げたようなバッターボックスに入ったときにピッチャーが投げてくるボールが怖い。

かなりの至近距離までボールが迫ってくるし、コントロールが悪いと当たってしまう。

当時は至近距離ノックとかもさせられた記憶がある。

バッターの打球を守備としてキャッチするのとかは問題ない。

結局それも、「なんで怖いのか」という根本の原因を解決しないまま今に至ってしまっているような気がする。

「なんで怖いのか」という根本の原因、といったって、それはあのスピードでボールがせまってくるから怖い、のであるが、そういうことではない(どういうことだよ)

でも、良くも悪くもルールはわかるので観戦するのは好きだ。


同様の並びで、一輪車もできない。


ちなみにスポーツ関連の他の競技に関していうと

サッカー→特別得意ということはないが、少なくとも苦手意識ということはない。あのごちゃごちゃした感じとかルールとかわかってないが、ボールが怖いとかそういうことはない。

バスケ→同様

テニス→学生の頃少しやった程度。恐怖心とかはない。

バレー→中学生のときにやっていた。強烈なスパイクとか飛び込んでレシーブとかは怖い。

水泳→一応、全ての泳法ができるし、苦手意識は感じない、というかどちらかというと一番好き。

剣道→高校の授業で少しやった。結局よくわからず。得意とか不得意の前によくわかってない。

柔道→中学・高校で少しやった程度。体格が小さいのであまり得意ではない。相手の力をうまく利用する、とはいってもある程度こちらも力は必要な気がする。

器械体操→身体能力が高くないので、全体的に苦手。



少し話が逸れてしまった。

この辺りの話が、心理学で課題解決がどうのこうのというような話があったなと思って調べてみたら、エリクソンという人がそういう研究をやっていた。

なんか昔、教養か何かの授業でそんなことをやった記憶がおぼろげながらある。

発達心理学の課題解決理論的な視点で、今回の話をもう少し掘り下げられそうな感じはしているが、それはもう少し調べてから別の機会に。