2018年11月23日金曜日
『死刑 その哲学的考察』
「死刑」というより「哲学的考察」に興味があり読んでみました。
つまり、哲学的考察を現実の問題への適用の仕方をみてみたかったからです
他の本と比較したわけではないですが、この本は好印象を持ちました。
この本の主張としては最終的に「死刑廃止論」という結論になるのですが、冒頭にもしつこく書かれているように、結論ありきの議論ではありませんでした。
哲学的、論理的な考察から死刑廃止論を導きだしています。
こういう哲学的考察は好きなんですけどねー。
哲学科の学生みたいに、ひたすら翻訳とか哲学者の背景を知るために文献を漁るみたいなのは、僕は苦手なのです。
哲学科でいつか学んでみたい、と思う一方そういう作業ばかりになるのは嫌だなぁーと思ったり。
この本の考察ではまず、文化相対主義と普遍主義の特徴について触れています。
「人は人、自分は自分」というような相対主義に立つことは議論を放棄することになるとのこと。
ことあと、結論が死刑を肯定することになるにしろ、否定することになるにしろ、そのロジックは普遍主義の立場で組み立てられなければいけないと書かれています。
相対主義に立っていると、「人は人、自分は自分」なので、外国で日本人が外国政府の法律に基づいて死刑を執行されたとしても、「外国は外国」なので、日本が意義を申し立てることもできなくなってしまって泣き寝入りするしかありません。
それは踏まえて死刑について考察していきます。
死刑というのは、「死ぬことによってしかつぐなえない罪がある」という道徳命題が真であるという前提のもとで成り立っているので、逆にいえばそれは「死ぬつもりであればなにをしてもいいのか」というような反対論を引き起こしてしまうとのこと。
実際の事件の例として「死刑になりたかったから人を殺した」みたいな最近増えているような事例をあげています。
そういうような「死刑になりたかったから」みたいなことをいう人間には生きて償う「終身刑」の方が刑罰として意味があるかもしれないとのこと。
そうなったとき、死刑を極刑とするのか、終身刑を極刑とするのか、両方を極刑にすることはできないので(理由は書籍本文をみてください)、どちらにすればいいのか。
どちらが道徳的なのか、なにが道徳的なのかという道徳的議論まで一旦遡ります。
その後、道徳的議論では「決定ができないということが哲学的、論理的に」示されます。
それを踏まえて、道徳的議論から政治哲学的議論へ移ります。
ここでは、冤罪の可能性について触れられます。
考察の結果、「冤罪とは(単なるヒューマンエラーではなく)公権力に構造的に内在されているもの」なので、冤罪が存在する以上、不可逆な刑罰である死刑は廃止すべきである、という結論に至っています。(死刑執行された人は生き返らない、生かしていれば万が一冤罪が判明した場合でも取り返しがつく。)
こういう哲学的考察ができるようになりたい。
僕もこの本を読むまでは、はっきりとした意見をもっていたわけではありませんが、どちらかというと「死刑廃止論」でした。どちらかというと、ですけど。
その根拠としては、可逆でない方法で刑罰を執行するのは、万が一のこと考えて取り返しがつかなくなるとまずいんじゃないんですかね?という、感覚だったからです。
この本のように主張されると、それはそれで納得。
考え方が偏らないように、反対の立場の本もいづれ読んでみたいと思います。
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