2016年10月6日木曜日

癌に気づかされるクオリア

「痛いの?それとも気持ち悪い感じなの?」

「うぅ、、、りょ、両方、、、」



母の癌が悪化した。今までは家の中ぐらいであればなんとか一人であるけて、一人で用もたせるぐらいは元気があったのだが、それも難しくなり入院となった。

貧血ですぐ倒れてしまう状態にもなっており、入院してからもさらに悪い方向へ進行したようにも思える。

こんなことは考えたくはないが、状態を実際近くでみていても、医者などからの見解などからしても、命の終わりが迫っているのを感じる。

家族、といっても、普段家にいるのは父だけだが、父含め親戚なども、「やばい」というような言葉などで表現はしたり、現実問題として母が安らかに死を迎えられるように環境を整えてあげることは必要なので、それに向けての準備なども進めてはいたのだが、「死」という言葉だけは意図的に避けているように感じる。

自分の身近な人がこういう状態になったのは始めてだから、「死」を薄々感じていても、それを言葉に出さないのが、そういう状況に置かれた場合の普通なのかはわからない。

遠方から祖父や祖母も見舞いに来たりもした。

彼らが帰ったあと、病室に数名が残ったが、そのときに「痛いのか、気持ち悪いのか」聞いてみたら、「両方」と返事が返ってきた。

そばでみていても、辛そうなのは痛いほど伝わってくる。

しかし、それが「どんな感じ」なのかというのは、想像ができなかった。




そんな光景を目の前にしているのにも関わらず、あるいはそんな光景を目の当たりにしたからなのか、どちらが適切な表現なのかわからないが、このとき巷で一時期話題になった「クオリア」の意味が少しわかったような気がした。




クオリアの説明自体は検索すれば、いろいろな説明が出てくるので詳細は省略するが、「あの青い感じ」、「頭がズキズキするあの感じ」などの「感じ」のことのようだ。

「感じ」という説明、定義が曖昧というか抽象的な感じがしてわかったようなわからないような感じを抱いていた。

非常に大雑把な説明であれば、色にしろ、痛みにしろ、外から入った刺激が神経を通り脳まで伝わり、脳内の電気信号を色や痛みととして感じるわけだ。

感覚を生み出す刺激の説明としては、電気信号の説明で済んでしまう。

しかし、「感じ」とはどれのことを指しているのか。

確かに、普段生きていて、いろいろな刺激に対して、いろいろ思うこと、考えること、感じることはある。

しかし、自分自身を一歩ひいて外からみることを考えたとき、「感じ」とは一体どれのことを指しているのか。

痛みと気持ち悪さ両方あるという返事を聞いて、その辛さを実際に自分で経験することができないもどかしさとともに、「あぁ、なるほど、これが『感じ』ということか」とわかったような気がする。

少し話の流れからは逸れるかもしれないが、違う種類のクオリア同士で比較してみるのも、理解が深まるのかなと思ったりもした。

例えば、「青い感じ」と「ズキズキする痛み」は、明らかに感じは違うと思う。

刺激が伝達される仕組みが違うんだから当たり前と言ってしまえばそれまでだが。



深く心に残る出来事はいろいろなことを考えさせる。

そして、考えること自体に必然性はないのに、なぜ考えるのか。

そのこと自体についても、また考えてしまう自分。



参考にしたページや文献・書籍
クオリア - Wikipedia

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