2013年8月25日日曜日

女性が苦手な理由

私は女性と接するのが苦手だ。嫌いということではないのだが、抵抗感がある。具体的に何が抵抗になっているのか、ということについて分析してきたこと、そしてできればそのもう少し先まで分析を進めたことについて書こうと思う。
まず一つはっきりと、これが出来ごとがちょっとしたトラウマになっているなと思い当たることがある。
小学校3年生頃だったかと思う。そのときの周囲の景色をなんとなくではあるが未だに覚えている。学校の教室で、机が全部後ろへ下げられている光景なのでおそらく放課後、そして人もまだそれなりに残っていて、がやがやしていたはずなので掃除の時間のちょっとした合間だったのではないかと思う。
列ごとにならんだ机の間で、女の子と向き合っておしゃべりをしていたはずだ。冗談かなにかをいった相手への反応として相手の肩あたりを少し小突こうと思ったのだが距離感の見誤りなのか肩ではなく、胸のあたりに触れてしまったのである。そして、「あ、セクハラだー」と言われてしまった。相手からすれば本気で言ったわけではないのだろう。しかも小学3年生の会話である。しかしそれが重大な罪を犯してしまったように、また相手から拒絶をされたように感じたのである。小学3年生でセクハラの意味も大して知らないのに、である。その相手の女の子が当時の自分にとって、かわいいと思っていた子であったし、仲のいい子でもあったから罪の意識や拒絶されたという意識がなおさら増幅されて感じられたのではないかと思う。
それ以来、たとえ仲のいい人へのちょっとした謝りでもセクハラと言われてしまうのではという恐怖で、安易に女性に近づくこともおじけづくようになってしまった。
セクハラという言葉の意味やことの重大さについて知るようになっていったことも原因だと思う。年齢を経るに従い世間のことを知るようになり、セクハラをすると捕まる、失うものが大きいというリスクの大きさや、またセクハラかどうかというのは相手がどう感じるかによるというような客観的にセクハラでないと証明することが難しそうな怖さなどから、誰がどうみてもセクハラとは思われないという行動をしようと思うようになり、ますます女性との積極的な交流を避けるようになった。
世間には、かっこいい男なら大抵許される、気持ち悪い男なら大抵許されないという、嘘か真かわからない傾向もあるようだ。自分の事について客観的な評価はわからないというのが正直なところであるが、自己評価としては、どちらかといえば気持ち悪い、不細工男の部類に入ると思っているので、何をしても拒絶されるのではないかと、無意識気的に怯え、臆病になっている気がする。
わからない、実際は思っているほど他人は拒絶していないのかもしれないが、やはり最初の一歩からして心理的バイアスがかかっているので、いつまでたっても不安を抱えているのかもしれない。

幸せとはなにか

最近、自分の周りで結婚をする人が出てきた。

主に女性陣だけど。

とはいえ自分と同年代なので、朗報を聞くと自分ももうそんな年なのかといろいろ考えさせられる。

世間一般には結婚というのは幸せの代名詞のように言われることもあるが、いざ現実感を伴って結婚の話しを聞かされると、結婚はおろか彼女すらできたことがない自分にとっては幸せとは何かについてついつい考えてしまう。

『幸せとはなにか』について直接的に考える前に、なぜ結婚するのかを考えてみる。

これについては、なんとなくわかる部分とやっぱりわからない部分がある。

わかる部分についてだが、この人と一緒にいれば継続的な歓喜・幸福・充実感・快楽・悦楽が得られる見込みがあるから結婚するんだ、という理由づけであればなんとなくわかる。

この継続的な歓喜・幸福・充実感・快楽というのは具体的にいえば、スキンシップから得られる(極端に言えばセックスなど)快楽やその前提にあるスキンシップを拒否されない、受け入れてもらえるという安心感、または話しがよく合うことによる得られる充実感や、相手に認めてもらえる(承認欲求を満たしてくれる)ことなどである。

スキンシップがコミュニケーションとして重要なことはいわずもがな、極端な場合としてのセックスが肉体的な快楽をもたらすことは大半の人にとっては周知の事実かと思われる。

この私自身、彼女はできたことがないが、セックスを一回もしたことはないという俗的な危機感と、気持ちいいと言われるセックスとはどのようなものか興味本位で風俗に数回だが行ったことがある。

実際やってみた感想として、いうほど気持ちいいかな?という感じであった。

そこから考えたことは、快楽いうのは肉体的な側面より、精神的な側面も少なからず影響しているときのほうが、あるいは精神的な側面が強く影響しているときのほうが得られるのではないかと考えた。

セックスをして快楽・悦楽に浸れるのは愛すべき人としているからであって、そこでは肉体的快楽はもちろんだが、相手が全てさらしだしてくれた、胸襟を開いてくれた、つまりそのような対象をして自分を認めてくれたということで承認欲求が満たされそれが肉体的快楽をあいまって快楽・悦楽を生んでいるのだと思う。

安心して自己開示できる相手、また同時に自己開示してくれる相手ということも重要かもしれない。

自己開示、つまり胸の内を話すということについて心理学的な深い理論はわからないが、経験則として心を少なからず満たしてくれるものだろう。

相手からの返答があるなしにかかわらず、聞いてもらうだけでも心が軽くなる。

しかしそのようなお互いに深い自己開示をできるまでの関係となる人はそんなにいないだろう。

その意味で、この人であれば自分の全てをさらけだせる、という確実かつ継続的に信頼できる相手と一緒にいたいと思うのは当然だろう。

一方でわからない部分というのは、継続的な歓喜・幸福・充実感・快楽・悦楽が得られる見込みというのを、どのように判断しているのかという部分である。

スキンシップなどの肉体的側面からの快楽については、継続的・連続的に享受するのは不可能であるが、そのようなことが受け入れてもらえる、という前提にある相手からの承認や信頼などについては継続的・連続的に享受することは可能ではある。

しかし実際問題としてはどうなのだろうか。新婚の頃などはできるかもしれないが、結婚後何年も経ち、お互いの存在が当たり前のようになったとき、相手からの承認や信頼などは実感として感じ続けることはできるのだろうか。

もし、結婚するに際しそのようなレベルまで求めてないよ、ということであればなぜ結婚をするのか全く理解ができないのである。

短いながらこれまでの人生で、この人と一緒にいて安心するな、満たされるなと感じた人は何人かいる。

しかし今過去を思い返してみると、その人達と一生を過ごすに値するかどうかというところに踏み込んで考えると、そこまでは考えられないなと思う。

もしかしたら、結婚というものを理想化しすぎているのかもしれない。

女性とまともにお付き合いをするということをしたことがないものだから、イメージだけが先行していることは否めない。

何年か、いや数カ月でもいいからお付き合いというものをしてみれば、その延長として結婚というのも考えられるのだろうか。

さて、次に幸せとは何かについて考えてみる。

果たして結婚=幸せだろうか。

上で、お付き合いというものをしてみれば、と書いたが、私の場合、独りでいる事に主に時間を割いていると思う。

私にとっては女性に限らず、他人と積極的に交流するより、自分の時間を大切にすることを優先しているように思う。

もちろん承認欲求などもあるが、結婚を考えたりするほど深く付きあい、承認欲求を満たすことは必要ではなく、ほどほどに満たせればよいかなという感じである。

あるいは認めてほしい対象が異性からのものではないのだと思う(ゲイいう意味ではない、念の為)
私にとっては自分の仕事等で社会に認められることに重心を置きつつ、異性との交流においてもほどほどに関係をもてる、ぐらいのバランスが幸せだと思う。

私のように社会からの承認を幸せと感じる人は決して私だけではないと思う。

そこで、結婚というのを特定の個人からの(深い)承認・信頼と読み替えてみると、一般化できるようにも思えてくる。

もしそのように一般化できるとするならば、結婚というのは幸せの特殊な場合ということになる。

自分にとってはこの推論過程が今のところしっくりくる。

幸せを他者からの承認だとするなら、それは自分の存在を他者によって意味づけされることであるから、当面の結論としては幸せとは自分の存在を他者によって意味づけされ、実感できること、としておこうと思う。

そしてこの幸せを求めて生きていこうと思う。

もっとももっと長いスパンの視点からみると、この幸せが本当に幸せなのかもあやしくなってくるのだが。