2013年6月18日火曜日

数学を選んだ理由

自分の普段の考え方の傾向やクセについて考えている中で、大学でなぜ数学を専攻しようと考えたのか考えてみた。

就職活動をしていたときに、一度振り返って確認をした。理由は主に三つあり、一点目が発想力を求められる点。二点目が論理の厳密性。三点目が、前の二つと完全に独立ではないが自分の『口喧嘩が弱かった』というコンプレックス。

今回は三つ目について、二点目と三点目について少し掘り下げてみる。

口喧嘩が弱かったというコンプレックスも嘘ではないが、もっと印象的なエピソードがあったことに最近気付いた。

小学生の頃、宇宙に興味があってよく地元の図書館で宇宙の本を読んでいた。その中で、土星の環を天体望遠鏡で観察する話が書いてあり、土星の環を観察すると紙より薄く見えると書いてあった。
ある日の給食で、いつも六人ほどの班をつくって食べていたのだが、その中で宇宙のことに話が及んだ。そこで、土星の環は紙より薄いと知識を披露した。ところが、同じ班に中学受験をするとても頭の良い子がいて、土星の環は小惑星からできているんだよ、紙より薄いわけがない、と突っ込みを入れられてしまった。向こうは特に恥をかかせたなどとも思っていないだろうが、私にとっては恥だった。反論しなかったのは、ごもっとも過ぎて反論できなかったのか、中学受験するその子がいうんだからそうなんだろうと受け入れてしまったのかは忘れた。

『自分の誤読』と『そこに書いてある事が事実かどうか』は別の事であり、先のエピソードなどは読んだ本にどのように書いてあったか正確には覚えたないのでおそらく『自分の誤読』なのであるが、そんな区別を当時はできるわけもなく、そのことがあってから本に書いてある事柄は本当のことなのか、と疑う心が芽生えたのは確かである。但し、なんとなく無意識ながらではあるので、何度もそこに引っかかり、今でも全く引っかからないわけではないのである。判断が難しい科学的神話(オオカミ少女の話や言語相対仮説など)から、極端な例でいえばいわゆるトンデモ話まで。

ちなみに、反論が難しいなと思うパターンがあって、それはもっともらしい(統計的な意味ではなく、一般的な意味で)根拠を用いて、科学っぽい説明を持ちだして主張されるパターン。そういうのは、それを科学事実ではない、ということを証明するには何を示したらいいのかすらわからない。

話が少し脱線したが、それが今になっても、なんとなく癖になっていてニュースなどをみても、貧弱な知識ながら、それは事実か、前後の文脈や背景から事実を適切に解釈しているか、フレーズの切り出し方は恣意的ではないか、もし反論があるとすればどのような反論が可能か、意見に偏りや先入観がないか、論理のギャップはないかなどと考えながら見てしますのです。だから、周りからはひねくれ者という風に言われることが多い私。

2013年6月14日金曜日

雑多な思考

日々考えたテーマ

・学際的な交流によるイノベーションの加速とSNSとの関係。
SNS以外にも方法はあるか?


・生物の性はなぜ2種類か?
無性生殖という性が1種類という種はいるが、3種類以上のものはいないのはなぜ?


・人はある程度事象例が集まると、名前を付けることによって身分をつけたり社会的スペースを確保したがる。
例えば、ニートであるとか、フリーターであるとか、一発屋とか。
どの程度の事象例が出現すると、名前がつけられるのか。
→逆に考えれば、その数をコントロールすることで、社会をうまく回せるのでは?


・ある物事に意見を述べられるのは誰か?

・フレーズの切り取り方の恣意性について。
前後の文脈から切り離して、フレーズを恣意的に切りだすことが意味の変化にどのような影響を与えるか。
具体例をだそう!


・仮定を用いた意見や主張の表明について。
仮定の話はしたくない、という人がいる。

シンポジウムに行ってきました。

先日、第3回脳情報通信融合研究シンポジウム「脳科学で拓く次世代情報通信」というものに行ってきた。現在の研究者がどんなことを考えているのか、課題としているのかなどが聞けて面白かった。
印象に残っているのが、柳田先生の講演と池田先生の講演。
柳田先生は「ゆらぎ」の研究をしている方。脳は「ゆらぎ」というノイズを積極的に活用して情報処理を省エネ化しているとのこと。
具体例として、ミオシンの動きや、アメーバ細胞の動き、また脳が閃く際の脳の活動などを挙げており、これらはノイズを積極的に活用しているからこそ、効率的に情報処理ができるとのこと。ミクロレベルからマクロレベルまで階層を越えて現れるノイズこそが、情報処理の省エネ化のポイントなのではないかとのことだ。このノイズが情報処理に果たす役割について研究し、逆にそれを応用し現在の情報処理の省エネ化、エネルギー問題に貢献できないかと考えているらしい。
また池谷先生の講演はとてもおもしろいものだった。このかたは読売新聞にも記事を提供しているが、そこに掲載されている写真だと生粋の堅物文化人という印象だったが、フランクで面白い人だった。内容として印象に残っているのは、人間が感知できないものとして、赤外線や紫外線などと並列に脳の自発活動も挙げている事、失った感覚を他の感覚で代用することができるのではないかと主張していることなどでした。
パネルディスカッションのあとに参加者からの質問もいくつか受け付けていた。物理学科の人で、宇宙論との類似点などはあるかと質問している人もいた。
結局質問はしなかったのだが、私もこんなことを考えてみた。

①脳の再定義はできるか
②神経モデルのモデル自身に数学的な構造はあるか
③脳や知能と呼ばれるものを実現する他の構造はあるか

①は、実世界でも1秒の定義が変わったり、1メートルの定義が変わったりし、また数学などにおいても性質と定義を入れ替えて定義をするというようなことをよくやるが、そのようなことが脳や知能でもできるのかどうかということ。再定義できれば、③で述べるように一般化へと繋がる。
ここでさらなる疑問がでてくるが、再定義をすることの意味は一般化へつながるということ以外になにか他にどのような意味があるのだろうか。
②は、例えば可積分系とか量子群とか結晶格子のような数理物理などでやっているようなことを神経モデルでもできるだろうかという疑問。
根底を貫いている数学的原理などがあればうれしい。それが素数とかと関連してればなお面白いなどと妄想をしてみる。
③については、脳や知能をどう定義するかにもよる、という意味で①とも関連してくる。また、上手く定義できたとしてその定義を満たす構造はどのくらいあるのか。少し論理の飛躍を許してもらえれば、可能な構造がどのレベルの原理に依存しているかというのも気になる。多元宇宙論で考えられているように、可能な物理法則と対応しているのか、もっと根元的に可能な論理と対応しているのか。